本土復帰五十年の沖縄でウクライナを思う 森 詠

五月十五日、沖縄は本土復帰五十年を迎える。
その直前の四月、私は三年ぶりに沖縄を訪れていた。半世紀が過ぎ、沖縄はどう変わったのか、自分の目で確かめようと思っての旅だ。
それに先立つ、二月二十四日、ロシアによるウクライナ侵攻が開始され、遠く離れた日本にいて、ウクライナの人々の惨状を沖縄戦の惨状に思い合せて考えることになった。
七十七年前の四月、沖縄はアメリカ軍の総攻撃を受け、砲弾爆弾の嵐に曝された。鉄の嵐のなか、必死に逃げ惑う沖縄の人々は、いまのウクライナの人々と同じ目に遭っている。
普天間基地の傍に佐喜眞美術館がある。館長の佐喜眞道夫さんが「もの思う空間」として、私財を投じて創った魂の緑陰の美術館である。コレクションをつらぬくテーマは「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」だ。
佐喜眞美術館の屋上展望台からは、アメリカ軍の普天間基地が一望出来る。屋上の階段は、六月二十三日の慰霊の日の日没に合わせて、夕陽の光が射し込む窓が作られている。
佐喜眞さんは、アメリカ軍基地に押収されていた先祖の土地の一部が返還された、一九九四年十一月二十三日に開館した美術館だ。私はこれまで何度も沖縄を訪れていたが、不勉強なことに、今回初めて佐喜眞美術館の存在を知った。(沖縄を訪ねたら、ぜひ、この佐喜眞美術館を訪れることをお薦めする)
美術館には、丸木位里・俊夫妻の描いた 「沖縄戦の図」という巨大な絵画が展覧されていた。ガマと呼ばれる洞窟に猛烈な鉄の嵐から逃れて避難した沖縄人の老若男女の阿鼻叫喚が描かれた絵だ。
私は、その絵の前で、ガマの中の真っ暗な闇に閉じこめられた、男や女、老人や子どもが発する、悲痛、恐怖、絶望、悲嘆、憤怒の声を聞き、背筋が凍るような思いで立ち尽くしていた。ウクライナの激戦地マリウポリで起こっている事態は、まさに沖縄戦での絶望的な事態と同じなのではないのか。
戦争で悲惨な目に遭うのは、いつも武器を持たない民間人の女や子ども、老人である。沖縄戦といまのウクライナ戦争とは、情況が違うとはいうものの、民衆が犠牲者になることでは本質的に変わりはない。
私はジャーナリスト時代に、レバノンのパレスチナ難民キャンプで、イスラエル軍の砲爆撃に遭い、パレスチナ人たちとともに防空壕に隠れ、彼らの置かれている悲惨な日常をいやというほど味わった。その恐怖と悲惨は、生涯忘れない。いまでも、ウクライナ戦争の報道を見る度に、パレスチナの戦場で嗅いだ硝煙の臭いや犠牲者の死臭を思い出す。
ウクライナ戦争だけに目を奪われていると、うっかりすると、レバノンやシリア、パレスチナでは依然として戦争状態が続いていることを忘れてしまいがちである。東南アジアでもミャンマーでの軍部独裁に対する民衆の武力抵抗も、マスコミが取り上げていないだけで、いまも引き続き行なわれている。
七十年以上前の第二次世界大戦で、世界はいやというほど戦争の惨禍の辛酸を舐め、もう二度と戦争はごめんだとなっていたはずなのに、その後も、ベトナム戦争、中東戦争、コソボ戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争等々をくりかえしてきた。そして、今回のウクライナ戦争である。
どうして、人間はこんなに殺し合いを止めないのだろうか。

私は、ウクライナ戦争に反対する。ロシアのプーチン大統領に、直ちに侵略戦争を止め、ウクライナから軍を撤退させろと要求する。
ウクライナ戦争に反対することも大事なことだが、それ以上に、日本人の私たちは、ウクライナ戦争にかこつけて危機意識を煽り、日本の核武装を画策する体制側の動きに、警戒すべきである。
早くも文藝春秋二○二二年五月号が「ウクライナ戦争と核」という特集を組み、エマニュエル・トッドの『日本核武装のすすめ 米国の「核の傘」は幻想だ』、安倍晋三の『 「核共有」の議論から逃げるな』を掲載している。
ウクライナの悲劇は、ウクライナが核を保有していないために、ロシアの侵略を受けたとし、だから、中国、ロシア、北朝鮮に対抗するには、日本も核武装したらいい、という論を展開する。アメリカの核の傘の下にいるから安全だという日米同盟にどっぷり浸かった平和論にも問題はあるが、だからといって、日本も核を持って、アメリカの核の傘から独立しようという考え方も日本の軍事国家への道に繋がる危険極まりない。
安倍晋三のいう「核シェアリング(共有)」もまやかしに満ちている。NATO諸国が、アメリカと核を共有することで、常時、自国のアメリカ軍基地に核兵器を保管しておき、いざという時に、アメリカの判断を待たず、自国の判断でその核を侵略者に対して使用できる、という考え方だが、アメリカが簡単にその国の判断を認めるはずがない。
アメリカは、自国の国益を最優先し、核共有をする国の国益などは、その次である。もし、核共有国がアメリカの意に反して独走したら困るので、絶対に独走させないだろう。
「核共有」という名目の下、アメリカの軍事戦略に組み入れ、その国の軍事力をコントロールするのが狙いである。
たしかに、現在はアメリカの核の傘の下に日本は置かれており、日本が他国から攻撃されても、核を使って反撃するか否かの判断はアメリカ軍に委ねる形になっている。それに対して、「核共有」は、一歩日本が足を踏み出し、核の使用を日本が決断する形にしようというわけだが、アメリカは、そこまで日本を信用しているかどうかは分からない。
もし、アメリカがそこまで日本を信用しているとして、アメリカの判断よりも先に日本が判断して核使用することをアメリカが許すはずがない。もし、日本が他国を核攻撃する事態が生じたら、自動的にアメリカも参戦することになり、他国と核戦争を構えなければならなくなるのだから。だから、日本の「核共有」は、アメリカから軍事的に独立しての「核武装」への布石といっていい。
日本は、従来から「持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核三原則を国是にしている。「核武装論」や「核共有」は、その非核三原則に反しているだけでなく、その制約から大きく逸脱している。
日本側がいくら非核三原則を唱えても、アメリカが守っていない可能性がある。五十年前の沖縄返還は「核抜き、本土並み」が歌い文句だった。だが、返還前には、二百発以上の核爆弾が沖縄の嘉手納基地等に保管されていたといわれる。それら全部が本当に撤去されたというが、その確証はない。
日米間には、さまざまな秘密協定があり、我々国民に知らされていない軍事秘密がたくさんある。いざという時に、アメリカ本土やグアムなどから、わざわざ沖縄に核兵器を持ち運ぶ時間の余裕はない。そのため、あらかじめ核兵器を沖縄に移送保管してあると見ていいだろう。
ウクライナ戦争を、日本の危機に通じる事態として捉えるなら、平和憲法を持つ日本が、まず核を脅しとして使う恐怖の核戦略を根底から拒否し、日本が先頭に立って、核を持たない国を大同団結させ、非暴力的な外交圧力により、核保有国に核の放棄を粘り強く説得し、戦争をさせないように訴えるべきである。
世界で唯一の核被爆国である日本は「核なき世界」を創るために、全力で「核兵器廃絶」を推し進める責任がある。
何度でもいう。
核と人間は、決して共存できない。
人だけでなく、あらゆる生き物が核とは共存できない。
人間だけが勝手に核を使用し、放射能の害悪を地球全体にばらまくなどはとうてい許されることではない。「核なき世界」は、脱原発社会でもある。
話を現在の沖縄に戻すなら、この五十年で、いったい、何が変わったというのか?

たしかに沖縄の風景は五十年前とは、劇的に変わった。モノレールをはじめとするインフラは整備され、近代的なビルや建物が林立し、人々の生活は豊かになっていた。
だが、その基底にある社会構造はといえば、沖縄は依然としてアメリカの占領下から脱していない。沖縄に日本にあるアメリカ軍基地の七割が集中している。肝心の本土日本も戦後七十七年も経つというのに、いまだアメリカの軍事的な「占領下」にある。
日米地位協定に基づく日米合同委員会は、日本の政府や国会の権限より上回る権限を持っている。日米合同委員会は日本政府といくつもの秘密協定を結んで日本国憲法をないがしろにしている。
沖縄滞在中、私は日本政府と米軍が強引に推し進める普天間基地の「移転先」とされる辺野古海岸を見に行ってみた。
辺野古漁港に隣接するビーチ辺野古ハーレーには鉄製のフェンスが張られ、そこから先は米軍基地キャンプシュワブの敷地で、立ち入り禁止になっていた。
フェンスの向こう側は、V字型滑走路建設のための埋め立ち地だった。私が行った時は、沖縄県が軟弱地盤の埋め立て変更を認めず、差し止め仮処分の申請を行い、工事がストップしていた時だった。そのため、埋め立て反対運動の人たちの姿はまったくなかった。
私が行った折、フェンスの向こう側の海浜を、七、八台のハンヴィーが縦横無尽に走り回っていた。車上には男女のアメリカ兵が、四、五人ずつ搭乗しており、停車しては全員降りて集まる。隊長が隊員たちにあれこれと指示や注意をしている。全員野戦服に防弾チョッキ姿で、ヘルメットを被っている。隊長だけは腰に拳銃を付けていたが、隊員たちは丸腰だった。
どうやら、ハンヴィーで砂浜の水辺を乗り回す訓練をしている様子だった。男女の若い兵隊たちは真剣な顔で、隊長の命令に従っており、フェンス越しに、私の方を見てもにこりともしない。
折しも、私が沖縄を訪ねた四月二日に、基地の取材にあたっていた琉球新報の記者に向かって、アメリカ兵が銃口を向けた事件が起こり、新聞マスコミが大騒ぎをしていた。ウクライナ戦争を受け、沖縄のアメリカ軍も緊張しているのだ。
フェンス越しに、エメラルドグリーンの海が光輝いていた。こんな美しい海辺が埋め立てられるのか、と思うと心穏やかではなかった。
漁港で船を陸揚げして休んでいる漁民たちに尋ねると、「いくら反対しても、国は米軍のために埋め立てを強行する。もう仕方ねえな」と、半ば諦め顔だった。
五十年経っても沖縄の現実は変わらない。あいかわず沖縄はアメリカ軍に占領された島だった。沖縄戦では、日本軍9万4136人、米軍1万2520人が戦死、加えて推計9万4000人の沖縄民間人が戦争の犠牲になった。
私は佐喜眞美術館の丸木位里・俊夫妻の 「沖縄戦の図」の前に座り、しばらく沈思黙考し、戦争の無意味さ、悲惨さを考えざるを得なかった。いまウクライナで起こっている事態を想像し、戦火の犠牲者たちを悼むしかなかった。(2022年5月15日記)

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