連載 故郷福島の復興に想う第5回 請戸小学校物語 谷本 多美子

 2023年2月20日の朝日新聞朝刊に「またこの場所で」と題して東日本大震災、原発事故で大きな被害を受けた浪江町請戸の苔野くさの神社で開かれた、豊漁と豊作を祈る安波祭あんばまつりりの記事が載っていた。請戸地区の多くは災害危険区域に指定され人が住めなくなっているが、2月19日はゆかりの人々が集い、神事や伝統芸能の「田植踊」などが奉納されたとのこと。安波祭りは300年以上の歴史があり、田植踊は地元の小学生が担っていたが、震災後は年齢や地域の縛りを緩めて伝統をつないでいるそうだ。
 震災前に田植踊をしていた子どもたちも大人になっているか、高校を卒業するくらいの年齢になっているだろうかと、新聞に載っているあどけない表情の少女たちを見て思いを馳せた。
 請戸地区は津波で全滅に近いほど被害を受けている。直後に起きた原発事故によって、助けに行った消防士までが避難せざるを得なくなり、瓦礫の下に声のするのを知りつつ、助けられなかった無念さを語っているのを後日新聞で読んだ。
 請戸地区の人々も被災地の多くの人々も苦しんでいた2016年5月、母校福島県立双葉高校の東京支部同窓会が、都内の某所で開かれた。そのおり、請戸出身の一人の後輩から一冊の絵本を頂いた。表紙には青い空の下に白い雲がたなびき、際立つように小さな校舎がシンプルに小さく描かれていた。本のタイトルは、『請戸小学校物語―大平山を越えて―』(NPO法人 団塊のノーブレス発行)、だった。表紙を見るなり咄嗟に、「子どもたちはだいじょうぶだったんですか」と聞いてしまった。「子どもたちも先生も大丈夫だったんです」と彼女から返ってきたときは、心底よかった! と、思った。
 筆者の高校の同級生は請戸の苔野神社に嫁ぎ、ご夫妻で犠牲になったばかりでなく、彼女の娘さん夫妻も逃げる途中津波の犠牲になり、幼稚園に通っていたお孫さんだけが残された、とある同級生から聞いていた。痛ましすぎて今でも言葉もない。ずっとお孫さんのことが気になっていたが、あるときの朝日新聞に、関東方面に嫁いでいた彼女の三女の方が苔野神社の後を継ぐことになったと、載っていた。その記事を読んでいくらか安堵した。
 
 『請戸小学校物語』は次の短い文章から始まる。

請戸小学校物語
                    
2011年3月11日金曜日
福島県浪江町にある請戸小学校の
一日のお話しです。
 
 文字の下には、校庭で遊ぶ子、テラスで友達が遊ぶ姿を眺める子、教室の前で友達と語らう子、など何気ない日常の絵がある。この日、子どもたちは過酷な経験をすることになることは多くを読まなくても想像がつくので、後輩から全員無事だったと聞いていても読むのが怖かった。暫く心を落ち着かせてからページをめくっていった。絵本の最初の方から引用させて頂く。
 
 ぼくらの町請戸は、山と海にかこまれたしぜんゆたかな小さな町です/町の人たちはおたがいにあいさつをかわし、みんな仲良くくらしています

 請戸小学校は/100人くらいの小さな学校です/きゅうしょくを食べるのも/遊ぶのも/みんないっしょです

 2ページ目の絵には、あの日、2011年3月11日も、昨日と同じように、友達と遊ぶ様子や先生に話しかける様子など、繊細な水彩画が描かれている。
 さらにページをめくっていくと、体育館の絵がある。式典なども執り行われる壇上の横断幕には、祝修・卒業証書授与式、と大書されている。もうすぐ六年生は卒業して、新しい一年生が入ってくる。五年生は一番上の学年になり、一年生には後輩ができる。子どもたちは不安と希望を抱きながらあの日一日を過ごしていたことだろう。
 
 11ページ目からいつもの日常は急変する。5時間目の授業が終わろうとしていたとき、ごおーっという音がして、学校が揺れ始める。主語のない「地震だ!」の声、子供たちは机の下に隠れるも、揺れが酷く、机ごと揺さぶられる。「早く校庭に出なさい!」と先生が叫ぶ。「とにかく高いところへ」「大平山へ!」校長先生も叫ぶ。

 絵本の最後の方にある資料、地震後の動き、を見ると、地震発生から5分後に近所の人が「津波がくるから逃げろ!」と学校に駆け込んでくる。ここから話しは急展開していく。3分後に子どもたちと先生たちが避難を始める。学年毎にならび、間に先生が入り子どもたちを守りながら小走りに走る。先へ行こうとする足の速い子が、遅い子を助けたり、車椅子の子をみんなで支えたり、1.6キロメートル離れた大平山をめざして、子どもも大人もひた走る。海岸沿いに浜街道があって、避難する車で渋滞していたが、先生がなんとか車を止めて子どもたちを通らせる。子どもを探しに親が来るが、先生は立ち止まらずに避難を続ける。地面が何度も揺れる中、先頭の先生と生徒が大平山の麓に着く。
 ここで困ったことが起きる。山へ登る道がなかなか見つからない。もう猶予はない。一刻も早く高いところへ。そのとき、四年生の男の子が、「先生!こっちだよ!」と山への入り口を指さす。彼は少年野球の練習で大平山に来たことがあったのだ。先生たちは男の子の指さす道へと入って行く。途中ぬかるみのところも、先生が車椅子の子をおぶって進んでいく。
 まだ山に上りきる前に、海の方から不気味な音が響く。先生たちは子どもたちを不安にさせないように声をかけて励ます。苦労の末に全員無事大平山に到着する。暫くして先生たちが大平山の麓近くまで様子を見に行くが、目の前には変わり果てた請戸の姿。無言で戻った先生に子どもたちはどうだった? と聞くが、先生は何も答えない。子どもたちには請戸のことを知らせないことに決めていたのだ。
 子どもたちが大平山に登り切る前に聞いたあの音は、町も学校も津波にのみ込まれていく音だった。山は木に覆われていて、子供たちには惨状が見えなかった。
 先生たちは話し合いで浪江町役場に避難することと決め、全員大平山の反対側に下りる。このとき地震発生から1時間近くが経っていた。多くの子どもたちが、体力の限界を迎えていた。辺りはだんだん暗くなり、雪もちらついてきた。歩けなくなった子どもたちのため先生の一人が役場に助けを求めに先に走って行く。子供たちが不安を抱えて待っていると、大型トラックが通りかかり、子供たちを全員荷台に載せて役場まで運んで行ってくれる。
 地震から約1時間半後、先生たちは子どもたちが全員無事だったことを確認し、迎えにきた親や家族に引き渡す。


 翌日以降、福島第一核発電所爆発事故により、避難生活が始まり、絵本が書かれた2015年3月時点では請戸のある浪江町はまだ避難生活が続いていた。

 請戸小学校は海岸から300メートルのところにある。あと少し避難が遅れたら、と考えただけで全身の血が凍る思いだ。生死を分けたのは、教師たちの、日頃からの防災に対する意識と、子どもたち一人一人の命の尊厳に対しての共通の認識と、チームワークではなかったかと考える。大平山の登山口を知っていた小学四年生の男の子の言うことを信じた先生も凄いと思う。日頃から子どもたちとの信頼関係が築かれていた結果だとも思った。
 子どもたちの避難については補足がある。もちろん子どもたちは自力で、助け合って、がんばったけれども、大平山までの1.6キロメートルの距離を、何人かの大人たちも車でピストン輸送をしていた、と請戸近くに住んでいた知人に聞いた。
 大平山から浪江町の体育館に避難して肉親の迎えを待っていた子どもたちだが、家族も全員無事な子どもたちばかりではなかった。一人二人と親元に引き取られて行く中で、最後まで残った子どももいたと聞く。両親を亡くしてしまった子どもは、その翌日から始まった過酷な避難生活に、どのようにして耐えていったのだろうか。どこかで無事で元気でいてくれることを願うばかりだ。
 大震災と東京電力福島第一核発電所の爆発事故から12年が経ち、『浪江こころ通信』(2023年2月発行)によると、請戸の子どもたちは成長し、住民も全国に散らばっている。請戸から南相馬市に移り、水産加工所を再開させたご夫妻もいる。少しずつ漁業も再開しているこのとき、隣の双葉町と大熊町に跨がる福島第一核発電所からの汚染水が、処理水と名称を変えて間もなく海に流されようとしている。
 原発事故から12年は被災した人々にとっては通過点に過ぎない。震災と原発事故による避難者は3万人を越えている。その90%は福島県という。この事実を無視するかのように、政府は先月原発の運転期間を60年以上に延長できるよう法案を閣議決定した。老朽化した原発のその先を考えてのことだろうか。福島の教訓は何も生かされていない。

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