連載 故郷福島の復興に想う第6回  故郷福島の復興に想う――国策とは 谷本 多美子

 3月に入り故郷南相馬市の集落の代表から立て続けに訃報が届いた。2011年3月11日以降、集落の住民の方が亡くなると代表を通して必ず連絡は来るが、筆者は遠方ゆえ葬儀に参列することは叶わない。本来なら、集落のどこかで不幸があると、各戸から一人ずつ手伝いに行く習わしになっていた。原発事故以後集落の人々は全国に避難し、そこに定着した住民は全集落の四分の三を超える。12年も経った今ではこれまでの慣習を守っていくことなどとうていできない。さらに3年前のコロナウィルス感染拡大が、小さな集落の繋がりをますます細く危うくしてしまった。 
 今年亡くなった二人の女性は、どちらも100歳に手が届くほどの高齢の方々だ。誤った国策によって始まった戦争、その戦争に青春を奪われ、農家に嫁ぎ、生まれたばかりの子どもを残して戦地に赴く夫を見送り、舅姑、小姑に仕え、血の滲むような苦労を強いられた人々だ。この二人に限らず、戦争によって人生を狂わされた人々は数え切れない。
 三十六戸の集落の中でも、悲喜こもごもだ。運良く死なずに復員してきても、過酷な軍務の果てに結核を患ったり、兄弟で出征して、兄が戦死し、その兄の妻と逆縁をしたり、敗戦後の価値観の大転換や復興期の大混乱に人生を翻弄されたり、などなど数え上げたらきりがない。腹が立つのは、年寄りが戦争を始めて、前途ある若者を戦地に送り消耗品のように扱い、死なせてしまったことだ。死んだのは兵隊ばかりではない。第二次大戦によって日本だけでも300万人もの人々が亡くなっている。その中には多くの民間人がいたのだ。
 戦争責任をとって当時の首相だった人物が絞首刑になったくらいではすまない困難な時代を、必死で生き抜いて、どうにか穏やかな老後を送れるようになったのに、まさかの原発事故は起こった。何度も人の人生を奪うような国策に、我々はいつまで翻弄されるのか。

 3月のある日、古居みずえ監督の映画『飯舘村べこやの母ちゃん それぞれの選択』を見た。前作は見ていないが、飯舘村については、長谷川健一さんという方が、原発事故の記録を残すために、事故直後にビデオカメラを購入して撮影した映画を見たことがあった。そのときにも牛を殺処分のために送り出す農家の人々の苦悩が強く心に残った。今回の映画はその後の飯舘村のこと、飯舘村の今に生きる3人の女性たちのことの10年間の記録、と古居監督は、舞台回りのあいさつで語っていた。
 飯舘村は筆者の生家から30㎞くらい離れていて、親戚も知人もなく、原発事故前は村に踏み入るどころか、どの辺りに位置するのかさえも知らずにいた。まるで未知の村だったが、あの日、2011年3月11日を境に、飯舘村が突然マスコミに登場したことによって身近に感じられるようになった。

 飯舘村について

 飯舘村は福島県の北東部、阿武隈山系北部の高原に開けた、豊かな自然に恵まれた美しい村である。総面積は230平方キロメートル、その75%を山林が占める。高原地帯特有の冷涼な気候に加え、ヤマセ(偏東風*筆者註)が吹くことから、年平均気温が10度、年間降水量1300㎜前後で、冷害に悩まされてきた。村民は冷害に強い農作物を植え、畜産業に力を注いできた。
 原発事故が起こった2011年3月当時、飯舘村には200件を超える畜産農家と12件の酪農家が存在し、6180人の村民と約3000頭の牛が暮らしていたが、4月に飯舘村が計画的避難区域に指定され、全村避難に。多くの農家が廃業や移転を余儀なくされた。
―中略―
 国は、「2017年までに帰還困難区域以外の地域の避難指示を解除する」とし、2014年から本格的な除染作業が始まった。
 2017年3月31日、6年に及ぶ避難指示が解除される。
 2022年12月現在、帰還者数は1232人と震災前の約2割にとどまっている。
           *映画『飯舘村べこやの母ちゃん―それぞれの選択』パンフレットより

「飯舘村べこやの母ちゃん」のパンフレットより

 周囲の町や村では町村合併が推し進められて行く中で、飯舘村は村として独立して成り立っていた。映画の冒頭、ここに到達するまでの飯舘村の歴史が解説の中にあった。飯舘村は、現在の世代の3世代か4世代前の人々が、満州から引き上げて来て開墾した村だったのだ。満州開拓も、飯舘村開墾も、核発電所建設も国策だとしたら、飯舘村の人々も、いくつもの国策によって人生を翻弄されたことになる。
 もともと山だったところを開墾するにはどれほどの時間とエネルギーを要したことだろう。現代のように機械など無い時代、鍬を振るって石ころだらけの山を何度も耕し、深く根を張る木の根を掘り起こし、漸く作物が作れる農地にしていったのだ。先人たちの血と汗が滲む土地が、美しい村、と呼ばれるようになって、人々はその恩恵に与って生きていた。誰もがこの幸せは明日も続くと信じて疑わなかったことだろう。
 筆者が最初に見た映画の作者、長谷川健一さんもその一人だったはずだ。長谷川さんは2021年3月に甲状腺がんを発症、5月に手術を受けるが、10月に再入院、そのまま帰らぬ人となる。映画の中で、「放射能なんかに負けていられない」と叫ぶように言われた彼の声がまだ耳に残っている。
 長谷川さんの甲状腺癌について、国寄りの医師はおそらく「放射能とは関係ないですから」というのではないか。甲状腺癌が見つかった福島の子どもたちにさえ言うくらいだから。
 
 映画の中の3人の女性たちは多くのものを失い、故郷を追われ、家族とも離ればなれになって暮らす。それでも前向きに生きようとしている。彼女たちの生き方は、絶望している者に希望を与えると思う。しかし、それ以外の大多数の人々はどうしているのか。
 事故後間もなく、日本バプテスト連盟(プロテスタントキリスト教団体の一つ)の主催で、40歳以上限定での、福島スタディツアーがあった。筆者も線量計を持ちながら躊躇することなく参加した。飯舘村の役場にマイクロバスを止めて、役場の様子を見ていたとき、一人の男性が軽トラックに乗って役場にやって来た。いぶかしげな表情で筆者たちを見ていた男性が呟いた。「こうなったらおしまいだよ」
 それから少し経って、帰村が始まった頃の飯舘村の様子を、NHKのドキュメンタリー番組で見た。軽トラックの男性とは別人だと思うが、一人の男性が、家族と離れて、一人で帰村していた。避難する前に自宅周りに広がっていた田圃や畑は、放射性廃棄物の詰まった真っ黒なフレコンバッグで埋まっていた。窓を開けると目に入るフレコンバッグの山に、男性の心は次第に蝕まれ、アルコールを手放せなくなっていた。
 あの人々のその後が、悲惨、という二文字でないことを祈るばかりだ。
 
 先日大熊町出身の友人からショッキングなメールが届いた。

 大熊町は、原発成金や保障など手厚かったので、反感感情も多く、金に汚いなど、避難先でずいぶんバッシングを受けたりして、バラバラに隠れて暮らしています。身元明かさず、ひっそりバラバラに、です! 被害や非難への同情が、反転して憎しみ嫉妬に変わっています! 難しいストレスにさらされながらも、金依存体質になり、ambivalenceです!
*アンビバレンス 一つの対象に対して、愛と憎しみのような相反する感情を抱くこと。両面価値的であること。広辞苑より 筆者注釈

 飯舘村の人々の間にも同じことが起きていないか、考えると心が痛む。

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