『林京子の反核世界』
天瀬裕康著
2023年2月1日発行
溪水社
1,320円+税
天瀬裕康氏の、『林京子の反核世界』は、林京子と核状況下の現状について、三章からなる「詩による評伝」と前書きにある。以前天瀬氏より、俳句、短歌、漢詩、自由詩で3.11から10年を詠んだ混成詩『麗しの福島よ』をご恵贈頂き、書評も書かせて頂いた。書評と呼ぶには未熟で稚拙で、秀作に対して冒涜ではないかと、身も縮むような申しわけない思いが今も残っているのだが、福島を、人間を、知る上で大切な一冊であり、今では私の座右の書となっている。今回もまた優れた叙事詩の書評を書かせて頂くにあたり、僭越であることを自覚しつつ、鈍い心で感じたことを、作品中の言葉を引用しながら書かせて頂きたい。
前書きでは、核戦争の危機が過去に遡って述べられている。1950年の朝鮮戦争、1962年のキューバ危機、そして現在のロシアによるウクライナ侵攻、北朝鮮のミサイル。ロシアによるウクライナ侵攻は欧米のフェークニュースだと信じている日本人もいるくらいだから、1950年、1962年のことなど危機感をもって思い出す人はどれくらいいるのだろうか。そのうち、広島、長崎の原爆投下はなかったと言い出す人も出てくるのではないか、と危惧してもいる。だからこそ天瀬氏のように、核兵器を使われてしまった国で、被爆し、地獄を経験した作者の、真実を伝える文学を後世に残していく義務と責任が我々にはあるのだ。
第1章 作家になるまで、は「上海の少女」から始まる。女の子がいた(略)
平凡な表現だが、すでに読者は林京子という一人の作家の人生へと思いを馳せることだろう。宮崎京子という彼女の名前(旧姓)、上海にいる理由、誤った国策による戦争、戦争の悪化により父親だけを残して一家で帰国、彼女を待ち受けている苦難の将来は次の「長崎にて」へと繋がっていく。
やっと帰国したのは
終戦の間近にせまった
昭和二十年のこと
西暦で言えば一千九百四十五年
(以下略)
昭和二十年に上海から長崎に帰国するには幾多の苦難があったことだろう。帰国できたことだけでも、幸運、と言えたのではないか。あと少し遅れれば国策によって満蒙開拓に送られた人々のように、更なる地獄を味わうことになったことだろう。場合によっては帰国できなかったかもしれない。
しかし、帰国し、諫早で暮らす母と二人の姉妹と別れ、中等教育を受けるために一人で長崎に下宿した京子や彼女の校友たちは、勉学の時間はわずかで、大手企業の兵器製作工場での働き手として動員されたのであった。人を殺す兵器、爆発の危険のある魚雷を、年端もいかない少女たちに作らせるこの国の体質は、今も変わってはいない。一千八百八十二年、明治天皇が軍人に下した「軍人勅諭」に、「義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」とあって、この教えは敗戦後まで守られたと近年知って、愕然とした記憶が蘇る。
人の命が鳥の羽よりも軽く扱われた時代は終わっていない。いじめ、過労死、枚挙にいとまがない。
工場の場所は、そこは間もなく
爆心地から一、四キロの
悲劇の地点になる
絶後の地獄
(中略)
だったのだ。「八月九日の惨禍」、京子十五歳になる少し前の一九四五年八月九日、午前十一時二分、惨劇は起きた。
京子が動員されていた兵器工場は
爆心から一、四キロ
一切の生物が死滅する
と いわれた特別地域
想像するだに恐ろしい光景は、言葉によって冷静に紡がれていく。探しに来た母親に伴われて京子が三日後に祖母のいる諫早に逃げ帰ると、あたりは被爆者で溢れていた。京子が目にした人々は、銃弾に当たって即死するよりも、何万倍も酷い死に方をしていった。
被爆者たちが死んでいく
髪の毛が抜け死んでいく
蛆をわかせて死んでいく
無傷な者も 死んでいく
人間の尊厳は、いったん戦争になると確実に失われていく。果てしなく広がる人間の心の中にある罪、仏教的にいえば業は、人格を破壊し、ひいては国をも破壊する。特に核兵器による攻撃は、地球のすべてを破壊し、人類を絶滅させるのに十分だ。戦争という大罪をなぜ阻止できなかったのかと、一人愚かな問いを何万遍もくり返してきた。ロシアのウクライナ侵攻による戦争が、二年近くも続いている現実に、ほぼ絶望し、それでもまだ、かすかな希望を捨ててはいない。林京子の青春時代の日常が戦争であり、彼女にとっては、気負わなくても、青春物語は戦争であり、淡々と書き続けることが、意識せずとも反核へと繋がっていく。ペンは弱いけれども、書き続けているうちに力になる、生前の井上ひさしの言葉だ。
「戦後の生活」
家族でただひとり被爆した京子の戦後の生活は、めまぐるしく変わっていく。戦後一年経って帰国した父親は財閥解体によって失職、一九四七年三月京子の長崎高等女学校卒業、九月に叔母を頼って上洛、五十一年二十一歳の時林俊夫と結婚、被爆のことを考えながら、東京、横浜、逗子へと転居していく。この年の四月にマッカーサー元帥が帰国し、世の中は少し明るさを取り戻していたが、本人の体調不良は続き、同級生や知人らを突然襲う原爆死、京子には心配がつきまとうのだった。子どもが生まれると今度は子どもの死を怖れるようになるが、
不安の「生」、「死の中の生」
それらは
やがて作品化される
「長崎の詩的活動と検閲」
炎天、子のいまわの水を探しに行く
この世の一夜を母のそばに、月がさしている顔
なにもかもなくした手に四枚の爆死証明
―すさまじい松尾敦之
の 自由律俳句
広島でも最初の原爆作品は、俳句、短歌、川柳のような短詩型文学だったと思うと作者はいう。だが日本人の生活から出たもの、殊に原爆関係の文学は連合国総司令部により厳しく検閲されたから、すぐに発表できたわけではない、と作者は松尾敦之の作品の公刊が戦後十年経ってからという事実を示していう。
林京子には
結婚生活があった
が 文学よ燃え上がれ
京子よ 小説を書け
作者は京子が作家として胎動を始めていることを暗示し、大いに期待をしている。
「祈りの長崎?」
社会が少し落ち着きだした昭和二四年、サトウハチロウ作詞、古関裕而作曲の“長崎の鐘”が巷に流れ 流行し始める。
これは長崎医大の放射線学者
N博士の 同名の作品を
歌謡化したもの
平和への祈りだ
として大ヒット
が これは長崎の原爆感を
「祈りの長崎」として固定さすもとになり
長崎の原爆文学に
ブレーキをかけたのではないか
N博士は、永井隆博士だと、ある年齢以上の読者にはわかる。続いて詠む詩には、永井博士の原爆擁護の考え、原爆を神の摂理、神の恵み、と解釈し、死者の罪、穢れ、にも言及していることに作者は抗議の意を表明している。林京子はどう考えたか、と作者は問う。私も永井博士と同じキリストを信じる信仰をもつ者であるが、広い意味で、人間は神の摂理の中に生かされていると信じている。が、神とは全知全能、オールマイティである。原爆が神の摂理であるはずがない。むしろ悪魔の仕業と呼ぶべきだ。原爆がよいものであるなら、広島、長崎の被爆者は残らず幸せになったはずだ。かのキューリー夫人は長年の放射線被爆により、再生不良性貧血で亡くなったことは誰もが知るところだ。ついでに言わせてもらうと、分厚い聖書の中に、煉獄、はどこを探してもない。自らもローマカトリックの修道僧であったマルチン・ルターは、難行苦行の末、カトリックの教理の誤りに気付き、宗教改革を起す。そのために命を狙われることになったが、フリードリヒ三世に匿われ、一年余りをかけて新約聖書のドイツ語訳を成し遂げる。ここでプロテスタントとカトリックの違いを論じるつもりはない。原爆が神の恵みでは決してないことを声高に言いたいのだ。
林京子は? 擁護派なら原爆文学は生まれなかったと読者も考える。
彼女はじっと 眺めていた
いつかは書くとの
予感を秘めて
第2章 多くの作品から
「祭りの場」を筆頭に、数々の京子の作品、文学賞、選者の評価などを通して、作者は独自の文学観を詠んでいく。また他の作家も登場させ、比較しながら、京子が不動の作家となっていくことを暗示している。この章を読んだ読者は、林京子の作品を読破したほどの満足感を得ることだろう。作者の広い心と広い視野、深い洞察力とをもって,一つ一つの作品を丁寧に読み、叙事詩として詠んでいく姿勢は,京子の作品をいっそう際立たせている。
「ギヤマン ビードロ・十二連作」
『ギヤマンビードロ』が講談社から
出版されたのは一九七八年の五月
これは話題を呼び さっそく
芸術選奨新人賞の内示があったが
「被爆者だから国家の賞は受けられない」
と辞退 あっぱれ!
作者は、被爆者である京子の芸術選奨新人賞辞退に、あっぱれ!と、惜しみなく賞賛を送っている。作者自身とも重なる。京子を通して、本質を突く視点をもつ作者に、私も読者の一人として大いに賞賛を送りたい。
第3章 原爆作家を超える
第2章の「多くの作品から」の後半、「アメリカに移住」あたりから、第3章に繋がっていく。京子は長男のアメリカ駐在に伴い、1985年6月その家族とともにヴァージニア州に移り住みそこで3年間暮らす。1988年2月、旅行記『ヴァージニアの蒼い空』を擱筆、5月に中央公論社より出版。同月二人目の孫が生まれ、6月に帰国。
「国立原子力博物館にて」
一九九九年、京子は友人の案内でアルバカーキー空軍基地に設置してある、国立原子力博物館を訪れる
一般見学者は 専用のバスに乗り換えていく
二十分走りミュージアムに着く 質素な建物
入って目につくのは テニアン島を飛び立ち
長崎を攻撃したボックス・カー号が 沖縄に
帰還した道筋の写真
奇妙な視線を感じる
テレビでは記録映画
三人の白人男性に老人が説明
老人は気がかりな視線で京子を見ると
(略)
場面がきのこ雲に変わると 三人の男の背筋が緊張
一人の男が窺うように京子を見る ここは
老人たちの世代が勝ち取った栄光の世界なのだ
《老人が見せた視線は、核廃絶は人間の良識、と鵜呑みに信じていた》京子の神話を崩す
(以下略)
栄光の世界に浸っている老人たちと共通する思考を、日本人もまたもっている。隣国朝鮮半島を植民地支配したことを正当化する人々に直接会った。今でもまだヘイトスピーチに快感を覚える人たちを見かける。立ち位置が違う者同士、どうすれば歩み寄れるのだろうか。もどかしく、気も遠くなりそうなのだが、あの広島長崎の人々に言い尽くせないほどの痛みや苦しみをもたらした原子爆弾が、棺のように鎮まっている、と結ぶ。そうだ、原子爆弾は人間のみでなく、すべての生き物を焼き尽くす悪魔の火であり、棺は死滅を意味していると私は思った。正しい結論は時間が証明する、とこの箇所を読んで感じた。
さらに作品は、ロス・アラモス国立研究所、トリニティー・サイトでは、原発への想い、『希望』という本、と続き、最後は、影響を受けた人々、で終えている。影響を受けた人々の中に、『林京子全集』の編集員の一人であった井上ひさし、長崎生まれで長崎市役所に勤めながら「聖水」で芥川賞を受賞した青来有一が挙げられている。
井上ひさしは、全集第三巻の解説の中で《林さんの作品に導かれて、私はもっと広いところへ出ることができた》と書く(以下略)
青来有一は、長崎原爆資料館長をしていた一七年に「小指が燃える」を発表
これには林京子をイメージして作り上げたHが登場
青来自身の「わたし」は ジャングルの敗残兵を描いている
なぜここで 被爆した長崎を書かないのか
戦後生まれだから 知らぬ原爆を書く《うしろめたさ》
それをHが救う 京子の「三界の家」や「野に」が救う
林京子の《自由に書いていいのよ》というエールで
青来有一は 被爆を描くことができたのかも……
多分そうだ 他にも沢山いる そして今後も
影響を受けた作家が出てくるに違いない
あとがきにあるように作者は林京子に、ノーベル文学賞に値する、と惜しみない賞賛を送る。影響を受けた作家は、井上ひさしや青来有一だけだはない、もっと多くの作家が出てくるに違いない、と林京子の影響力を信じ、期待を寄せている。作者自身の文学論に留まらず、隣人のために、引いては全人類のために、核無き世界、を切望する作品に、このたびも心を掴まれた思いが残った。
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