前回は1989年2月に、島根原発2号機が営業運転を始めたところまでお話しました。これは日本で36番目、平成時代になってから営業運転を始めた最初の原発だったのです。1・2号機を合わせた出力は128万kWになり、発電電力量における原子力発電比率は、約20%になったのですが、中国電力はまだ欲を出して、山口県熊毛郡上関町にも原発を作ろうとしていました。これは現在まで反対運動が続いていますが、初めの部分だけでも報告しておきましょう。
1974(昭和49)年4月1日から翌年の4月5日まで、朝の連続テレビ小説として放映された『鳩子の海』という作品がありました。原爆のショックで記憶を失った戦災孤児の鳩子は、瀬戸内海のある場所へ辿り着きます。山口県
ところが現実には1982年6月29日、上関町で当時の町長が町議会において、「町民の同意が得られれば、原発を誘致してもいい」と、原発誘致の所信表明ともとれる発言をしてから事態は変わってきます。それはパソコン・ブームが始まった年でもありますが、1年後の町長選挙では原発推進派が当選し、以後は現在に至るまで推進派・反対派の抗争が続くのです。
中国電力㈱が発行している『中国電力50年史』(2001年11月)には、「上関町から原子力発電所立地のための事前調査実施の要請があったのは、1984年10月15日のことであった」と記してありますが、じっさいにはそれ以前にも、中国電力からは何らかの誘い掛けがあったようですし、すでに日本で五番目の島根原子力発電所1号機を設立していた中電の内部では、上関町方面に新しい原発を設ける案はかなり早くから浮上していたと思われます。1981年末には計画は明るみに出ていました。ただし、そうした部分は資料として定かでないので、一応、町長の議会における原発誘致発言のあった日をもって発端の日、としておきましょう。
原発推進派と原発反対派との間における勢力の消長は『中国新聞』や各種マスコミ、反原発グループや推進派の出版物、年次報告書的な印刷物などの記載から、かなりのところまで推測されますが、今回は初期の部分だけさせて下さい。
中国電力の歴史は、正式には1951(昭和26)年からであり、電灯の始まりまで遡っても明治以後ですが、これに対して町域と住民の歴史的背景は、はるかに長いようです。
むかし瀬戸内海西部には、船の荷を検査する番所が設けられており、現在の山口県に相当する地方では、都に近い方から「上関」「中関」「下関」と呼ばれていました。室町時代には能島村上氏の祖である村上義顕が上関城を築き、戦国時代には毛利氏の海上拠点の一つとなり、江戸時代中期の上関は北前船の風待ち港として栄えたので、富裕な商家の名残が見られます。
明治時代になって、蒸気船が登場するに及び寄港地としての役目を終え、一八八九(明治22)4月1日の町村制施行により長島・八島・祝島が上関村となり、1958(昭和33〉年2月1日、上関村は室津村を編入したうえで町制を施行して上関町となりました。
この上関町に、中電が原子力発電所(しばしば原発と略す)を建設する計画を浮上させたのは昭和五十七(一九八二)年、後でまた述べるように、翌五十八年には上関町側にも上関原発の建設計画が浮上していたのです。(「原発」はモノとしての発電所でなく、抽象的・科学的概念としての「原子力発電」の略語として使うこともありますので読み分けて下さい。)
原発の立地予定となった山口県熊毛郡上関町は山口県の南東部にあり、
写真は比較的最近頂いたもので、田ノ浦の遠景です。
一般的に言えば、多くの原発は貧しい地域に建てられています。上関で原発の問題が浮上した1982年当時、上関町が貧しかったかどうかは定かではありません。
しかし、ともあれ住民は、より豊かな生活を選んだようです。1983年以降、11回の町長選挙がありましたが、これらはすべて推進派が推す候補者が当選しているのです。しかし反対派の声が微弱であれば、ずっと以前に上関原発は実現していたのではないでしょうか。じっさい上関原発については、激しく執拗な反対運動があったのです。
まずは昭和時代の推進派×反対派の動きを眺めてみましょう。
半世紀まえの朝ドラ『鳩子の海』静かなりしが今は闘争地
あらかじめ原発の話撒いておき地方議会の決議を待つ手
町長は推進派なれど反対が多くて進まぬ原発設置
(2024年7月11日)