連載 原発の蔭と影第22回 上関原発と反対運動 天瀬 裕康

 前回ちょっと触れたところですが、上関町の町議会で初めて原発の話が出たのは1982年6月のことです。このあと、10月には中電側が「上関が有力」と発言し、さっそく11月には祝島の反原発運動組織「愛郷一心会」が組織されます。推進派は少しもたついていましたが、12月には「上関町の発展を考える会」が正式に発足しました。
 1983年の2月28日には、向井丈一を会長とした全町的反原発組織である「原発に反対し上関町の安全と発展を考える会」が結成され、四月の上関町長選挙に対応しました。その結果は、片山秀行(推進派)2871票、向井丈一(反対派)2121票で、片山秀行が町長となったのです。
 片山新町長は十二月の町議会で、「原発も企業誘致の一つ」と所信表明し、議会は「上関町基本構想」を可決しました。
 1984年になると、原発推進派は中電に現地調査を求め、「原発立地環境調査促進請願」を提出し、反対派は事前調査の反対請願を提出しましたが、6月議会は推進請願を強行採決した。
 片山町長は10月15日、中電に「事前調査実施」を要請。中電は11月20日に「上関立地調査事務所」を設置し、12月5日からボーリング調査を始めます。
 1985年の3月には中電の事前調査が終了し、5月には中電が「適地である」と調査結果を報告しました。「130万KW級2基を建設したい」との構想です。6月議会に推進派は「原発誘致請願」を提出し、反対派は「反対請願」を提出しました。これらの請願は「特別委員会」に付託されています。
 付託とは、議会などで、ある議案を本会議の議決に先立ち委員会などの審査に委ねることです。この場合は秘密会で審議されたから不明瞭であり、9月議会は「原発誘致請願」を強行採決していますから、ますます不明瞭な感じが強く残ります。
 1986年の2月には町議会の議員選挙があり、定数16名のうち反対派議員は一名であったものが、7名に著増しています。
 中電は3月から4月末までに、建設予定地・田ノ浦のある四代しだい地区など一七ヵ所で説明会を開きましたが、祝島では実施できませんでした。
 4月26日にはソ連でチェルノブイリ(ウクライナ読みではチョルノ―ビリ)原発事故が発生し、5月から6月にかけて中電と町当局による「ソ連原発事故説明会」が実施され、6月には「中電上関寮」が完成しています。
 8月には町が、原発誘致に関して「地域振興ビジョン懇談会」を始めましたが、祝島ではしていません。実施できなかったのです。片山町長は名目をつけて祝島上陸を試みますが、島民により実力阻止されているのです。
 なお11月の終り頃から、上関町の人口が急に増えていますが、これは翌年の町長選挙と関係がありそうなのです。
 1987年は、4年に一度の町長選挙の年である。前年の11月末からこの年の1月にかけ、155人の転入があったのは、1月20日までに転入していれば4月に行われる町長選挙に投票できるからでしょう。
 4月26日に行われた町長選挙では、片山秀行(推進派)2835票、河本広正(反対派)2116票で、片山町長が再選されました。彼は6月議会で「早く誘致を申し入れたい」と語っています。
 これに対して「原発に反対し上関町の安全と発展を考える会」は6月25日、不正転入で124人を山口地検に告発しております。10月25日、片山町長は「災害視察」の名目で機動隊に守られ祝島に強行上陸しました。
 翌1988年3月26日には山口地検が不正転入で7人を正式起訴、111人を略式起訴にしました。5月18日、上関町議会は反対派が提出していた「不正転入問題調査特別委員会の設置」議案を強行的に否決し、9月5日には片山町長が抜き打ち的に、中電に対し原発誘致の申し入れを行っています。中電は10月28日、上関町に対し郵送で「上関原発誘致を受諾」と回答しております。
 この辺りの記述は、「原発はごめんだヒロシマ市民の会」の木原省治氏が作られた年表を参考にしていますが、昭和時代の話はひとまず休止にしておきましょう。昭和64年1月7日(土)には昭和天皇の逝去があり、平成と改元されたからです。
 反対運動はずっと続きますが、平成以後は章を改めることとし、最も強硬な反対派である祝島とその住人に触れておきましょう。

 今回は島の概観だけをお伝えしておきますが、瀬戸内海の西端が周防すおう灘に接するあたり、上関港の南西約一六キロメートル、原発予定地・田ノ浦の西方沖合三・五キロメートルの場所に、ハート形の離島が浮かんでいます。
 これが祝島いわいしまで周囲は約一二キロメートル、面積は約七・七平方キロメートル。古来、神の島として崇められ、遣新羅使が島の沖を通った時に詠んだ歌が万葉集の十五巻に載っており、島内には歌碑が作られていました。
 下記の二首は、いずれも旅の安全を願った和歌ですが、冬は激しい季節風が吹くこともあり、防火の目的も兼ね、石を積み上げた練塀ねりべいを作り周囲を囲った家があちこちにあります。

 家人は帰り早来と伊波比島(祝島)斎ひ待つらむ旅行く吾を
 草まくら旅行く人をいはひ島(祝島)幾代経るまで斎ひ来にけむ
                                (2024年8月15日)

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