脱原発社会をめざす文学者の会では、6月11日、12日の2日間久久に福島の被災地を訪問し、私は11日だけ参加した。11日の訪問地は福島第一原発の立地する大熊町と、隣接する双葉町であり、最も復興が遅れている地域だ。大熊町は2022年に特定復興再生拠点区域が避難指示解除されたが、まだ町内の半分強が帰宅困難区域。二葉町は2022年3月に一部指示解除されたが、現在も町内の8割以上が帰宅困難区域だ。
今回の訪問はこの2つの地域、大熊町の吉田淳氏、双葉町の伊澤史朗氏の2人の町長の話を聞くのが、主な目的だった。内容は他の人が「会報」で報告すると思うので詳しくは記さないが、二つの街の居住者は震災前と比べ、大熊町は6%ほど、双葉町に至っては2%にも満たない現状だ。それでも、ベンチャーなど新しい企業の誘致、工業団地の建設、国内でのトップレベルの住宅環境の設置など、人口増加のための考えられる限りの対策がされている。
もちろん、復興が簡単に行くなどいう楽観はない。様様な復興計画はまだ始まったばかりなうえ、復興予算も縮小の傾向で前途多難とのこと。伊澤町長はこのような内容の話をしていた。
「13年避難地で生活をしていればそこが故郷になる。特に子供は友達もでき、そこでの生活が日常だ」
実際、役場や駅などの周辺を離れると、帰宅困難区域でなくても、空き家が目立ち壊れかけた住宅も少なくない。それでも街を地図から消したくない、そんな気持ちが2人の町長に共通していた。
「この地域は避難解除が最も遅れているから、せめて他の帰宅困難区域の指定を受けた市町村と、同じレベルの復興ができるまで、支援はして欲しい」
やはり伊澤町長の切実な声だ。
大熊町には250年以上の歴史のある「熊川稚児鹿舞」が、双葉町には300年近い歴史がある「ダルマ市」がある。このような「伝統を途切れさせないことが大切」というのも、2人の町長の言葉。
「居住はしなくても、伝統が残っていれば故郷になる。休みの時だけでも若い人や子供が帰宅すれば、町が途切れることはない」
と伊澤町長。実に長い時間がかかる復興といえる。それでも、遠い未来のための小さな糸をつむぐ、2人の町長からそのような意志を感じた。