2011年3月11日は金曜日だった。曜日に特別な意味があるわけではないが、毎年三月の初旬に長年聴講生として学んでいた平塚の活水聖書学院では派遣式(卒業式)が行われた。この日の金曜日は私にとっては日にちと連動して忘れられない曜日となった。
時代の流れとともに、年々神学生の数は減ってはいたが、それでも、毎年若者だけでなく、中には社会人で家庭もありながら、仕事を辞めて入学する人もいた。二、三科目を選択して学ぶだけの聴講生と違って、彼らは神学だけではなく、聖書に関連するヘブル語やギリシャ語を学び、牧師としての役割を果たすために、実に多くの学びをし、極端にいうと、トイレの掃除をしている姿を見かけたこともあるが、それほど苦労して牧師として派遣され、派遣された先ではさらなる重責を担う彼らを、毎年病気や身内の不幸でもないかぎり、出席して祈りつつ送ることにしていた。
そうせざるを得ない理由の一つに、彼らは自発的に学び、労することをいとわないところが挙げられる。
式は厳粛に、矛盾するが和やかに、順調に進み、午後のレセプションの時間になった。来賓兼講師から、派遣される派遣される二人の神学生への祝辞が始まった。何人かの講師が交代でスピーチをしたのだが、その途中、午後二時四六分、最初の大きな揺れが起こった。講壇の横の花瓶が今にも倒れそうな勢いだった。その後二度体に感じる強い揺れがあったが、そのたびに講壇に立つ講師が祈り、誰も慌てふためいて外に飛び出すこともなく、レセプションは順調に進んだ。このとき阪神淡路大震災を経験した講師が三人おり、一人は倒れてきた箪笥の下敷きになり、家族に助け出された経験をもっていた。講師陣の恐怖の体験が、未経験者の初めて経験する恐怖の瞬間でも、落ち着いて行動できる大きな助けとなった。
このときの私の経験など、被災地の人々にとっては取るに足らない経験であったことを知るには、まだ少し時間が必要だった。
レセプションの最後は、神学生と聴講生の音楽発表会だった。私も神学生に交じって、教会音楽の授業を選択して学んでいた。その中に音楽個人レッスンもあり、いつか正式に声楽を学んでみたいと思っていたこともあり、人前で下手な歌を歌うことへの恥を捨てて、受講していた。
この年も、派遣式のために練習を重ねていた。発表の順番を決めるくじ引きで私がトップバッターになった。伴奏をお願いしていた友人がピアノの前に腰を掛け、私も前に進み出ようとしたそのとき、一通のメールが私のPHSに入った。
津波がきた山に逃げた死ぬかと思った
故郷南相馬市に住む妹からだった。ショックを受けるとパニック状態になる妹のメールには句読点もなく、かなり動揺している様子が読み取れた。私を基準にして考えて、些細な事、と思えることにも大袈裟に反応する妹をたびたび見てきているので、それほど深刻にはうけとめなかったが、一方で異様な気配も感じた。もう一度メールを読み返す余裕はなく、押し出されるように前方に進み出て、ヘンデルの「ああ、感謝せん」を歌った。
駅近くのビジネスホテルにでも泊まるしかないか、と思っていた時、ピアノの伴奏を引き受けてくれた友人が、「ホテルはどこもいっぱいだそうよ」と、大磯の彼女のお宅に泊まるように勧めてくれた。友人といえども迷惑をかけることになるし、と躊躇したが、ほかに手立ても思いつかず、彼女の厚意に甘えることにした。
いつもの通学路を通って平塚まで歩き、彼女のご主人に駅まで迎えに来ていただくことになっていたが、平塚駅前に着くと、大磯駅行きのバスが止まっていた。急遽予定を変更して大磯まで行くことにして、バスに飛び乗った。しかし、動き出したバスはなかなか進まない。一時間かかって一停留所進んだだけだった。道路の渋滞もこれほどひどいとは思わなかった。この先大磯までは何時間かかるかわからない。友人も同じことを考えていたらしく、降りて歩きましょう、とどちらからともなく言葉が口をついて出た。
一時間ほどかかって大磯駅に到着した。友人がご主人にお迎えを頼む電話をかけているときに、私のPHSが鳴った。2月に施設に入所した父の施設の担当者からだった。父たちは無事との連絡だった。慣れない環境で父がどんなに不安だったか、と考える余裕などなかった。
派遣式も、レセプションも、音楽発表会も、途中余震で何度か中断しながらも無事に終わった。自宅まで二時間近くかかる私は、暗くならないうちに帰宅したいと思い帰り支度を始めたのだが、どこからともなく、東海道線が動いていないという情報が入ってきた。関東一円の交通網が麻痺していたことは、まだこの時点では知らなかった。

*この日、故郷南相馬の老人介護施設ヨッシーランドは津波に呑まれ、入所していたお年寄りと職員合わせて三七人が犠牲になっている。後日この施設を何度も見ることになるが、建物一階はほぼ全滅だった。
その夜友人宅で見たテレビの映像に、息を吞む思いだった。巨大な津波に襲われた東北地方の沿岸、一瞬のうちにすべてが吞み込まれていく。どす黒い波が執拗に襲う。悪夢としか言いようがなかった。妹からメールがきていたのに、自分の故郷の集落や生家と結びつけることはまだできなかった。思考が止まっていたともいえる。
生家の裏山は、今では手入れする人もなく、笹や雑木が生い茂り、人間が簡単に分け入ることなどできなくなっていた。そこを八五歳の母と六〇歳を超えた妹がよじ登るなど想像もできないことだった。事実パニック状態の妹は母の手が抜けるほど、抜けはしなかったが、引っ張ったり押したりして、なんとか途中まで這い上がったことを後日知った。
家族や人々が地獄のような時間を過ごしているとき、私は友人宅で、温かい彼女の手料理をご馳走になり、暖かい部屋でゆっくり休ませてもらっていた。