「ウクライナの核危機 林京子を読む」に参加して 大嶋 岳夫

 歴史時代作家協会の集いで出会った森川雅美さんに、シンポジウム「いま文学者として何ができるか」に参加しないかと誘われた。
 先達林京子氏といえば、文学賞を総なめするほど受賞していられるが、「ギヤマンビードロ」でだった、国からは受けないと賞を辞退された。実に骨のある方だ。シンポジウムにだから参加しよう思った。
 動機はもうひとつ。今年、鬼籍に入られた方々の遺されたお言葉だ。大江健三郎氏の発せられた「放射能の出る原発五十四基は全廃すべきだ」と、坂本龍一氏の「子どもの未来を危険に曝すようなことはすべきでない。福島の事故に沈黙しているのは野蛮だ」だ。
 しばしば作品を目にしている青来有一氏、私とは同郷の川村湊氏ほかの講師の方々に、いずれもお見受けするのは初めてだ、お会いしたくもあった。
 私は小説を発表してきたが、不勉強で怠け者で、名だたる方々の作品を、それぞれ一、二は読んできたが、交わる範囲は狭く、林氏についてもよくは存じあげなかった。
 シンポジウムに参加すると眼をひらかされ創作のしようにさまざま示唆を与えられるし、人と人との奇しき縁に驚かされることもある。半世紀もの昔になってしまった。故津島佑子氏と私は親しくしていた。その彼女が林さんと同人誌「文芸首都」でご一緒していたと、今回初めて知った。ただそれだけのことで心があたたまり林氏に親しみを覚えた。当時、林氏は三十代歳代、津島氏と私は二十歳代だった。
 米ロが一九八一年、中距離ミサイルを配備した翌年、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」を発したのは、大江氏であり林氏ほかの皆さんだった。
 一九九一年の「湾岸戦争に反対する文学者の声明」も同様。日本政府はこのとき一八兆円を拠出し、米英を支援した。唯一の被爆国である日本が、核のボタンが押されかねない戦争をしかけた国々になぜ与するのか。
 このような事実に「反対」の声をあげる人は、一億数千万人を数える国民の、常にだが、ほんの一握りの方々でしかない。わけを私は知りたかった。
 シンポジウムで解かれるようなそれは疑問ではなかったらしい。
 東日本大震災は、早や十年ひと昔前の災害、不幸になってしまった。人がまちが流され原発の炉の底が溶融しているさなか、哲学者であり民族学者であられる山折哲男氏が、万葉の歌「海ゆかばみずくかばね」を引いて、私の理解し得たところによればの話だが、人が波に攫われるさまこそ被災に暮れるさまこそ、自然と一体の日本人のなれのはての姿だ、と説かれた。何のことはないそれは、無謀な大戦で日本人が海のかなた陸のこちらでモズクと消えた様を彼が形容したときの言葉と同一だ。平和憲法を護していながら、いったん戦争を 引き起こしたが最後、人びとは虫けらのように殺されてよしとする、讃美さえする、日本はそういう国、国民なのか。
 防人としての万葉びとは、役人どもに駆り立てられ死地につくべく、列島の隅からすみへと歩かされた。彼らの嘆き訴えは中央には届かず、届いたとしても無視された。防人たちはふるさとに残して来たひとを「こひ」歌った。彼らのいのちを賭けた労役に報いんとてか中央は、そうとは思えない、彼らが詠った歌を拾うぐらいのことしかしなかった。
 否、待てよ、防人たちは、連れ去られた先で野に水に朽ち果てても、こうして死ぬのが我らが定めだとして、役人らにはひとことも異議を唱えず死んでいったのではなかろうか。それが大和びとたるものだと、諦観していたのでは。
 戦時中から、戦後、そしてこんにちもなおだ。核を落とされ死んで逝った人びと、放射能を浴びたがため一生患い続けた国民、に対して国は何をしたか。霊魂を祀り石碑に名を刻むことのほかに何をしたか。詫びたか。民主主義国家だと言えるのか。ほど遠い国なのではないか。
 今世紀末に向けて、古来のこの国の民の死生観は捨てるべきでは。叫ぶべき怒るべきではないのか。人ひとりひとりのいのちを大切にする国家観をうちたてるべき時が来ているのではないか。
 作家のはしくれとして生きてきて昨今、やりとげていないことがあるような気がしている。
 二十年も前に、大江健三郎氏が、NHKのインタビューに答え血を吐くような形相を見せつつ、文学のあるべきこれからを語られた。
 数日前のことである。アーカイブの備えがあることは私にとって僥倖だった。大江氏の映像をテレビが放映した。以前、目にしたとき、私は筆を折って食ってゆくためにただ必死だった。大江氏の訴えに初めはじめて触れたとき、何を感じたのだったか。想い出そうとしても記憶は空白のままだ。しかし、改めて目にして私は、感涙にむせんでしまった。
 彼はこう言われた。
 戦前戦中、誤った日本が、いつの日にかまた戻って来ないとも限らない。そのとき、国が国民がそうなろうとしたとき、文学の果たすべき役割とは「ノー」と言い切ることだ。言って悪しき流れを止めんとする勇気を持つ作家が、そのとき一人でもあらわれるなら、その人こそがあたらしい日本に向けた「新しい作家」、希望を託し得る作家像だ。
 私の理解が大きく間違っていなければ、そうであるならば、と私は思う。私もあと一作、書き遺さなければならない。
 そういう意味ではまことに不十分ながら、私は来る秋に、自作の短編集を出版しようと準備している。
 これまで「三田文學」などに、「私」と私の身辺の日常を綴ってきた。大江先生の「かくあれ」と望まれた理想にはほど遠かった。だが、このたびの作品集の巻末には、一行半句だけだが、言うべきことを綴っておきたい。
 短編集全体は、日本社会が、私の場合はことに雪ぐにが、あるべき姿に向かうようにと闘った私の足跡を認めたつもり。最後の篇に私は何を綴るか。原発についてだ。国からの委託を受けて私は、日本海側に立地されようとしていた実に七百万キロワットもの火力発電所が雪ぐにに住む人びとに喜ばれるよう、メリットをもたらすよう、生活インフラの環境整備に資するよう、その方策を研究したのだった。無事、国に調査成果を収め得たつもりだった。ところが、その翌月のことである。国は明かにした、発電所は実は火発ではなく原子力だった、と。
 なんと私は、国が雪ぐにの住民に放射能を浴びさせる業に与していたのだ。しかも、七百万キロワットのうちの一キロワットさえも、雪ぐにの住民に供するものではなかった。越後山脈を越えて、首都圏に送電する七百万キロワットであった。もしそう知らされていたならば、かつ原子力が安全だと国が言うのならば、原発は東京のどまんなかに、霞が関に立地させればよいではないか。
 そういう怒りの矛先は、おのずと自分に向かうこととなった。原発を立地させるのだと事前に知らされていたならば、私は受託を拒むべきだった。が、果たして拒み得ただろうか。
私の当時の苛立ちはこんにち、新潟の人びとにのりうつっている。東日本大震災後、柏崎の原発は、稼働をストプさせられている。
 大江氏は、文学者の力で五十四基を廃止できるとまでは考えられていなかったろう。文学者の力は弱いと認識されていただろう。国民が総力を結集しない限り国をあるべき方向へ動かすことは無理だと思われていただろう。だが、そこで絶望してはならないのだ。原発の開発は核を持つための手段にすぎない。
 核戦争が勃発し、原発が事故を起こしたとき、をしかと描出し、人類の最悪の状態を書き切り、そうはさせまいと叫び続けるのが、文学にかかわる者のなすべき努めである。
 北欧の国々、ドイツと日本は、地勢が異なるからと、言い訳していてはいけない。人類の彼岸を追い求めよう。人間への、ありとあらゆるいのちへの、愛、思いが日本には日本人には欠如しているとは考えたくない。

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