蜂鳥の移り気揺れしハンモック
頬寄せる水色の窓春哀し 由佳璃
指先に星が降ってくるような天空の都市がある。世界遺産となったペルー、マチュピチュ。その都市のために生涯を捧げた日本人がいる。
初のマチュピチュ村長になった野内与吉である。
福島県安達郡玉井(現大玉)村出身。22歳の時、横浜港から佐倉丸に乗船し日本人移民としてペルー、カヤオ港に着く。
1895年(明治28年)11月18日に裕福な農家に生まれる。
1917年(大正6年)契約移民として農園で働く。残念なことにマチュピチュでの一年目は過酷な日々だった。密林を開拓し良く働いたもののチフスやマラリアなどの風土病に悩まされた。
しかも、思ったほどの収入が得られずマチュピチュを離れる。
その後米国、ブラジル、ボリビアなどの国々をめぐり再びペルーにもどる。
1923年(大正12年)に40人の仲間とともに川から水を畑にひきさらに水力発電も開発した。
1935年(昭和10年)マチュピチュの玄関口であるアグアスカリエンテス(熱い水の意)に温泉があり旅人が利用するためのホテルを建設した。
本格的3階建て木造建築の「ホテルノウチ」である。
ここは気候が温暖なため旅人や行商人は野宿が当たり前だったところだ。
1階は郵便局と交番、2階には後に村長室と裁判所を置いた。
この滞在の期間に野内氏はケチュア語、英語とスペイン語を習得する。
言語がわからないばかりにいい加減な契約や安い賃金に泣かされる移民も多く、住民の人権を守るという意味合いもあったからだ。
責任感が強い人物で当時裁判官もやっていた。
その後1937年(昭和12年)にペルーレイル(国鉄)ができた。彼はここに勤務し,運転や工事の仕事をする。
1939年から1941年に行政官を経たあとマチュピチュ村村長となる。
その時代太平洋戦争開戦の頃であったため、連行され収容所送りの日本人も多かったが、与吉は優しい村人たちに守られながら暮らしていた。
現地で結婚したマリア・ポルティージョとの間に5人の子どもを持った。
1947年から1948年にかけて川の氾濫による土砂災害のマチュピチュ復興に貢献する。
1950年に国鉄クスコサンタアナ鉄道ができた年に定年となる。
先妻と別れた後2度目に結婚したマリア・モラレスとの子をあわせると11人の子を持つ。
1968年(昭和43年)福島の故郷に帰るが、残念ながら両親は他界していた。
野内氏は開口一番にひとこと。
「電気はついているか?」
当時の福島は現代のように原子力発電所が東京に電力を送るようなシステムは夢のような話で、石炭もしくは石油を使った火力発電の時代であった。
51年ぶりの再会にうれしさが隠しきれない与吉は兄弟親類と語り合う。
村ではマチュピチュのインカ帝国の遺跡の講演会をしたのち、再びペルーに戻る。
彼はまさに「今世浦島」と呼ばれ新聞やラジオの報道で話題の人となる。
2014年(平成26年)に日本マチュピチュ協会が発足している。
日本とペルーの架け橋となりペルーの村の存在と魅力を伝える為だ。
孫である野内セサル良郎氏が副会長を務めた。
野内与吉氏はペルーに戻り1969(昭和44年)年8月9日に他界。
2015年(平成27年)11月に福島の大玉村はペルー共和国のマチュピチュと友好都市となった。
マチュピチュ名誉村長として村民のために人生を捧げた彼が満天の星の一つとなりいまも小さな村を照らし続けている。