観音や石の眼開く蝉時雨
面杖の夢見し浄土西瓜割
大熊の地名に関係する「熊」の付く人名が、南北朝時代の史料にある。浪江町の仲禅寺に伝わる十一面観音像の胎内銘(像に刻まれた文字)に、1343(康永2)年6月6日の日付と、仏像の寄進に関わる人名の「熊女」。室町時代の標葉氏の家臣や、江戸時代には相馬中村藩士にも、「熊」や「熊川」氏の名前がある。1889(明治22)年、熊村、熊川村、大野村など五箇村が合併で熊野村、1954(昭和29)年大熊町となる。そして1970年福島第一原発稼働開始。
2011(平成23)年3月11日午後2時46分の地震、津波、さらに原発事故という複合災害は当時の住民には思いもよらない出来事に違いない。東日本大震災では全町避難。2019(令和元)年より帰町開始とのこと。
今年6月11日脱原発社会を目指す文学者の会の会員さんとともにいわき駅で待ち合わせて車2台で大熊町役場まで、途中「道の駅ならは」に寄る。
ここは温泉も完備の休憩所。
駐車場は24時間使用可能である。
地元野菜や特産品、軽食、アイスクリームなどがあり、地域の住民の憩いの場所だ。現在は平常営業となっている。
案内していただいた鈴木さん(東京福島県人浜通り会会長)がぜひ尋ねてみてくださいとにこやかに話す。彼の出身はいわきである。
大熊町役場は新庁舎となり、避難指示解除ともに、住民を募集している。
吉田淳町長がまず復興のレジュメを配り、解説してくれた。 企業を誘致して働く人の住む町を目指す。
企業を呼び込む新拠点として「大熊インキュベーションセンター」を2022年7月に小学校を改造して新産業や若手の起業家を育てる場所とした。現在数社の誘致が決まっているという。
地域に必要なものはなんだろう。それは手軽に買い物ができる,スーパーやコンビニエンスストア、地域の医療を受け持つ病院を再稼働させることである。ビニールハウスで土を使わず栽培する苺植物工場はドライフルーツやこんにゃくゼリー、イチゴティーとなる夢がある事業だ。
学校は”学び舎夢の森”で、2023年8月より0歳から15歳までの校舎を設立。
県民住宅を募集したほぼ入居者も決まりこれからの希望が見えてきた。再生賃貸住宅は大野南と原住宅がある。平家でソーラーがついている。
現在建設中の産業団地や新しいJR大野駅を見学して作業員さんがたくさん働く姿を見た。
ざっと地図を見ると原発と中間貯蔵施設が置かれている。
避難指示解除もやや遅れたため、完全な復興と住民が帰還することはまだ難航している。実直な町長の眼差しにこれからの大熊町の繁栄を願ってやまない。
次に、双葉町役場伊澤史朗町長をたずねた。
この町は駅西住宅エリアがあり、公営住宅の整備がすすんでいる。東日本大震災、原子力災害伝承館が建設された。双葉町産業交流センターではフードコートやレストランもある。電線を地下に埋める、除染をして住宅を建てるなど入居者を増やす努力をしているとの話をうかがった。新しい双葉駅は整備され、一階にショップ、内部も近代的なビルとなっている。
この駅の電車に連動するシャトルバスがあり、5分で伝承館、復興記念公園にアクセス出来る。シェアサイクル、カーシェアリングもありとても便利なエリアだ。双葉町ダルマ市、標葉せんだん太鼓、奉納神楽など町おこしとして土地の復興のエネルギーとなる祭りも今後しっかりと続けてゆきたいなど意欲的な印象を受けた。この町でも水素エネルギーは推進され、電気自動車、ソーラーパネルがおかれる。
庁舎裏には昔ながらの相馬妙見宮初發神社がリフォームされ、近くに新山城本城跡を残す。
その後7月17日の「毎日新聞」に伝承館裏の共同墓地が公園となる工事が始まることを知った。放置された石仏、墓などが撤去の対象だ。古い被災住宅、タイルだけを残す風呂跡も無くなる記事である。この場所は「慰霊の丘」になるそうだ。総額100億円の工事である。このエリアは復興記念公園となってゆく。
ちょっと悲しいがこれが現実だ。
近い将来、原子力発電所の塔がいわゆる負の遺産として残るのであろうか。
幸福への帰還はやはり簡単そうで難しいと感じる。
建築とは未来を作るもので土地が持つ可能性を広げるものだ。
遠くはるかな過去の記憶や記録を見つめて”福島”という場所の意味合いや文化を再構築したい。
私はこの日初めて電車に揺られ富岡駅からいわきを経由して東京へ戻った。1時間に1本の間隔だ。
別れ際、四家さん(東京福島県人浜通り会)が駅でいつまでも手を振ってくれた。
相双の風が軽やかに海岸線を吹き抜ける。
どこまでもつづく海岸線がきらめいていた。
フクシマや五言絶句の静夜なる