現場百回の精神に支えられ

 この世は天国にもなれば、一瞬にして地獄にもなる。/いつ、何が起きるか。知れたものでない。ただ、言えるのは、人間は自然に勝つことはできない、という真実だ。/きょう、午後二時四十六分ごろ、三陸沖を震源にマグニチュード8・8の巨大地震が起きた。ちなみにマグニチュード8・8は、明治のころに始まった観測史上最高の記録だそうである。まもなく三陸沿岸を襲った高さ七、八メートルもある大津波が、大変な勢いで民家や車、建物、人…と、ありとあらゆるものをアッという間に、のみ込んでいった。
 被害は夜に入り、いま現在(午後十一時)も、どんどんとふえ、犠牲者も限りなく増えつつある。これ以上の被害増大を、とても許すわけにはいかない。が、自然の前にはどうするスベもない。/この日、東京では公共交通機関の運行がストップしてしまい、渋谷などに人々が集結してしまったため、多くの人々が帰るに帰れなくなり、政府が急きょ、近隣施設を臨時の宿泊所としてあてがう、などの緊急措置が取られた。

 以上は、二〇一一年三月一一日に起きた未曽有の東日本大震災と福島原発事故の翌年四月に私が出した一冊の本【いがみの権太 大震災「笛猫野球日記」】からの引用である。
 地震発生時、私は新聞社の本社ビル7階にあるドラゴンズ公式ファンクラブの事務局にいたが、まるで大海原の海面を漂う木の葉の如く、ビルが揺れに揺れ、いつまでも収まらないため事務局の女性スタッフらと顔を見合わせ「とうとう、東海沖地震の発生か」と思った。そして。その揺れこそが、東海沖ではなく、東北沖で発生した東日本大震災だった。
 今にして思えば、この大震災そして福島原発事故の同時発生こそが、現役の新聞記者稼業を引退してなお私の神経の底部分にたまっていた記者魂とでもいおうか。私の中でパチパチと火音をたてる大いなる〝記者マグマ〟を揺り動かし、その後、私が【一匹文士】としての新たなる人生を歩み始めた瞬間ともいえよう。というわけで、私は新聞社の編集局に続いて定年を機に同じ新聞社内でも誕生したばかりだった、〝ガブリ〟をマスコットキャラクターとしたドラゴンズ公式ファンクラブの会報編集担当として数年を過ごし、当時は社側の遺留に感謝しつつも依願退職。幸い、在職中のドラゴンズは落合博満監督率いる、セ・リーグ連覇の黄金時代にも出会うことが出来、以降は現役記者時代に数限りとなく現場を踏んだ経験と現場百回の精神を頭に、新しい人生を歩み始めたのである。
 そして忘れもしない。大災害の発生後、私は休みを取って三月二十六日早朝、福島県いわき市の塩屋埼灯台直下に広がる廃墟の町と化した被災地一帯をトコトン歩いて回った。以降、私は大震災の被災地と原発事故現場もあわせ、楢葉、大熊、双葉、南相馬、山元、名取町……と順々と現地訪問を続け、塩屋埼灯台直下では決まって故美空ひばりさんの歌う<塩屋崎>に耳を傾け、「負けちゃだめよと ささやいた」と何度も何度も共に口ずさみもしてきたのである。
 今ひとつ。私は大震災が発生したその年に地球一周のピースボートに乗ることを決意。ファンクラブを辞した翌年の二〇一三年五月八日に横浜港をオーシャンドリーム号で出発。百二日間に及ぶ地球一周の旅を始め、乗船中は乗船日記【海に抱かれて みんなラブ】を連日、船上から発信。同時に【伊神権太がゆく世界平和紀行】も寄稿した先々の港町からユーチューブで世界に向け発信した。

【脱原発社会をめざす文学者の会】への入会は、帰国してまもないころだったかと思う。文学者の会誕生のニュースを新聞記事で知り、自ら志願して入会。以降は、個性あふれる会員仲間にも恵まれ、現在はコロナ禍の苦境という厳しい時代ではあるが、たとえ少しでも〈幸せへのパスポート〉確保の水先案内の一人になれれば、と文学者の会活動に参加。原発事故のない、明るく安全な社会の到来を願って執筆を続けている次第である。

最近の記事new

  1. 脱原発社会をめざす文学者の会編『原発よ、安らかに眠り給え』出版のご案内

  2. 隔月連載 げんぱつあくぎょうはなし 第13回 西尾 漠 (アイキャッチ画像撮影=片岡遼平)

  3. 連載 原発の蔭と影 第25回 祝島の抵抗 天瀬 裕康

TOP