連載 原発の蔭と影第16回 電車の発展と発電所 天瀬 裕康

 能登半島地震に際し、やはり志賀原発は問題がいろいろ出てきつつありますが、他日、改めて検討することにして、広島地方の電気・電力事情を調べさせて頂きましょう。

 文明開化の明治時代に、明るさと便利さの点でガス灯に勝った電気ですが、乗り物の動力としても実力を発揮するようになります。エレベーターや電車で、そのためもあって各地に発電所が建立されたのです。
 広島では明治の終りが近づいた頃、広島発展のために広島城のお堀を埋め立てることになり、その埋め立て地に路面電車を走らせよう、という話が持ち上がりました。いくつもの会社が鉄道院に申請書を出しましたが、九州電力のところで名前の出てきた東京の松永安左衛門と福沢桃介のコンビが「広島電気鉄道㈱」を設立し、着実に計画を進めていました。
 しかし1年遅れの1910(明治43)年に、大阪の大林芳五郎も「広島電気軌道㈱」を設立し、同じような計画を申請して、この2社による競合になります。広島県が間に入って調停を試みますが纏まりません。そこで大林が単身松永を訪れ、腹を割って話し合った結果、一度の談笑で片付きました。誠実な大林に対し、太っ腹の松永が譲った、と言われています。
 こうして1920年2月7日に、広島電気軌道㈱発起人に対し、軌道を敷設する許可が下りましたが、用地買収では広島城のお堀を埋め立てた土地の払い下げに関し一悶着が起こります。広島電気軌道㈱は、線路全部を電車専用の軌道として建設する予定でしたが、広島市議会から、道路を建設してその上に電車の線路を敷設しては如何か、という意見が出されました。広島電気軌道㈱は、買収しなければならぬ土地が広がって用地費がかさみ採算に合わないから、お堀の埋め立て地は工事費を負担するだけにして頂きたい、と広島市に要望します。広島市は、道路と路面電車の両方が建設されたら街が発展すると感じ、この願いを聞き入れます。
 ここから電車開業の時代が始まります。1912(大正元)年11月23日に、広島駅~相生あいおい橋間、紙屋町~御幸みゆき橋間、八丁堀はっちょうぼり白島はくしま間が開業しました。地名がたくさん出てきてウンザリされるかもしれませんが、重要な地点からトビトビに敷設していった、とご理解頂けるだけで結構です。開業日には花電車を走らせたせいもあるでしょうが、電車というものを一目見ようと多くの人が沿線に集まったそうです。当日は天気が悪かったものの、相撲などの予定もあり賑わったようです。12月8日には相生橋~己斐こい(現・西広島)間も開通し、終点の己斐では開業祝いでさらに賑わいました。市街地の中心部は道路に軌道を敷設しましたが、途中にある6本の橋は専用橋でした。また、千田せんだ町の現在は車庫になっている場所に発電所を設置し、現在の商工会議所の横に変電所を作りました。これは大切な点です。
 1915年の春には、宇品線が運行を始めました。4月4日から紙屋町周辺と宇品周辺において「広島県物産共進会」という博覧会があったので、工事を急いでしたのです。そのため、市内の一番東を流れる京橋川を跨ぐ御幸橋の建設は、後回しにされました。
 1917(大正6)年には、明かりを巡ってライバル関係にあった広島瓦斯㈱と合併し、広島瓦斯電軌㈱の時代が1942(昭和17)年まで続きます。この間、御幸橋の電車専用橋が開通し、広島駅~紙屋町~宇品や己斐~宇品が直通で運行されるようになります。この1942年というと、大東亜戦争=太平洋戦争は既に始まっており、すべてが戦時色に覆われていました。戦争により物質は不足し、産業別に経済統制を行なうという政府の方針に従い、1942年4月10日、広島瓦斯電軌㈱は電車・バスの部門を分離し、広島電鉄㈱を設立しますが、このさい淘汰が起こります。いま広島では、広島電鉄(路面電車)の他、広島交通(通称青バス)、広島バス(通称赤バス)が主たる交通機関ですが、終戦前の整理の名残かもしれません。
 もう一度戦前に戻りますと、広島電鉄には軍需工場の行員=産業戦士を輸送するという使命があり、1944年には比治山(陸軍墓地の所在地)線や江波(陸軍病院分院の所在地)が開通しています。ただし県内の軍港呉市では、1909(明治42)年10月14日に呉電気鉄道として開設していますから、広島の電車は2番目でした。
 チョッと脱線しましたが、大切なのは中国電力が生まれる前に電灯対ガス灯、電車対バスの問題があり、電気の需要増大と共に専門の電力会社が伸びていったということで、これは広島=中国地方に限ったことではなく、日本全国にほぼ共通したパターンだったのです。そして弱小・群立の状態にあった電力会社を、現在の10大電力までに巨大化させたもとは戦争末期における政府の政策にあったのです。すでに1939年には、日本発送電という電気事業を司る特殊会社が発足していました。これは国家総力戦体制を念頭に置く電力国家管理政策に基づき、東京電灯・日本電力など全国の電力会社が現物出資や合併によって設立された半官半民のトラスト(同一業種の企業が資本的に結合した独占形態で、加入企業は独立性を殆ど失うもの)で、要するに電力国営が始まっていた、ということです。
 それがより身近な問題となったのは、1942年の9月の中国配電の開設でしょう。もともと中国地方5県には90近い電気事業者がいましたが、政府の電力国家管理政策によって、山口県・出雲電気・山陽配電・広島電気の4電気事業者が合同した中国配電が生まれたのです。それが
 戦後、日本発送電中国支社と中国配電の合併により中国電力となるのですが、そのあたりは次回にいたしましょう。

外堀を埋めて花咲く街作り
雷の如く走れる電車かな
戦争で電力会社ふとりけり


               (2024.2.11)                               

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