連載 原発の蔭と影第19回 中電、原発設置へ 天瀬 裕康

 1951(昭和26)年51日に設立された中国電力㈱(以下、中国電と略す)は、他の電力会社の動向や政府の意向に沿って、原発設置の方針を固めます。
 場所は島根県八束やつか鹿島かしま片句かたく654番地―1――島根県の県庁所在地である松江市の北隣の、一畑薬師も遠くない、日本海に面した由緒ある土地です。片句の太子堂は180年前、灘屋柳蔵という病弱な男が建てたと言い伝えられています。彼は弘法大師を信仰しており、四国八十八カ所を巡礼したあと松江の石工に尊像を彫って貰い、持って帰ろうとしましたが重くなり動けなくなったので、ここに安置したのだそうです。
 こうしたことよりも県庁の近くという方が気になりますが、話はどんどん進み、原子炉の形式は沸騰水型軽水炉で、日立製作所が作るというのです。出力は46万kW,燃料は二酸化ウランで、1970年2月に着工してしまいました。
 反対意見がなかったわけではありませんが、原発が建ち並び始めた1960年代後半から70年代前半、和暦の昭和40年代は、世間が上を向いた時代でした。1966年5月にアメリカの原潜が初めて横須賀に入港し、これには反対するデモ隊が出たとマスコミは報じていましたが、67年11月にはアメリカ軍に押収されていた原爆記録の一部が返還され、68年から大型消費時代に入ります。69年は企業の成長目覚ましくモーレツ時代に入り、1号機が着工した1970年2月は、いざなみ景気と呼ばれた未曽有の好景気でした。73年3月には熊本地裁が、水俣病裁判で患者側の主張を全面的に認める判決を下し、島根原発は6月に試験運転をしています。
 営業運転を始めた1974(昭和49)年3月は、ユリ・ゲラーが来日しテレビ出演し、超能力ブームが起こるという浮ついた世相です。世間一般は原子力発電を「未来を作る夢のエネルギー」式の、電力会社や政府・与党のペースに巻き込まれていたようです。日本の電力会社が作った原発の中では関西電力の美浜発電所、東京電力の福島第一原発に次ぐ3番目の原発で、しかも原子炉は日立製作所が受け持って建設され、一部では国産原子炉の第一号と褒めそやされました。多くの国民から見ると気付かぬ間に原発が出来てしまったような感じでしたが、正確に言うと反原発運動は、すでに起こっていたのです。

 西尾漠氏の『反原発運動四十五年史』(緑風出版、2019年)によりますと、本格的な反原発運動は1963年9月、中部電力が南紀州の南島町と紀勢町にまたがる芦浜に予定した原発を、南島町の七漁協を筆頭に、各地で反対の動きが起こりました。64年6月には南島町議会が、原発反対を決議していますが、紀勢町議会は7月27日に誘致を可決しています。それで、田中三重県知事と中部電力の三田副社長が「芦浜に決定」と共同発表しますが、漁民中心の原発反対運動は続き、結局、白紙撤回に追い込みました。最初の大きな成功例でしょう。
 こうした紀伊半島での反原発運動の状況の一部は初期の原発小説群にも出ており、例えば竹本賢三氏(1910~78)の原発小説集『蘇鉄のある風景』(新日本出版社、2011年11月)に描かれています。これには表題作を含め7つの短編が収録されており、初出はいずれも『民主文学』で、1976年から87年までに掲載された作品です。竹本は『赤旗』の編集局に勤務した記者で定年まで新聞記者として勤めましたが、1960年代のなかば、和暦で言えば昭和40年頃に、南紀と呼ばれる和歌山県の紀伊半島南部に出張を命じられました。これは電力各社がそれぞれ各自の原発設置場所を決定しようとしていた時期なのです。竹下は反対派と推進派を取材し、推進派の嘘・偽りを感じて筆を執ったのでしょう。最初の「M湾付近」では、原発反対の先頭に立つ人物の妻が推進派町会議員の娘、次の「一念寺」では漁協の中で兄弟が賛成派と反対派に分かれて争う話。「八目鰻」と「狸の背中」は既に稼働している原発が、そこで働く人たちに強いる犠牲を描きます。「梅干屋」と「蘇鉄のある風景」では、また紀州の原発反対運動です。前者は町当局と電力会社に騙されて自殺する老人の話、後者は今も原発に反対する人たちを描いたもの。「植物人間」は、贈賄まがいの中元を配る電力会社の話。作者の死後発表された未完成の作品ですが、竹本の作品には未来を先取りした点があることに注目しておきましょう。
 現実には紀伊半島が原発を拒否したので、中部電力は静岡県御前崎市佐倉に1号機~5号機の浜岡原発を設置、関西電力は福井県に原発銀座を作りましたが、どうやら道草が長くなったようです。広島・中国電力に話を戻します。

 1973年6月、島根原発の1号機が試験運転をした際、中国電力の第一組合である「電産中国」(日本電気産業労働組合中国地方本部の略)は、原発反対の立場を明確にしました。同年8月27日には、日本最初の原発訴訟である四国電力伊方原発1号機の原子炉設置許可取り消し訴訟が松山地裁に提訴されています。
 74年の春闘の際、電産中国は営業運転を3月に始めたばかりの島根原発の正門前を半日ですがピケで封鎖しました。春闘は1955年の「春季賃上げ共闘総決起大会」が始まりで、私鉄総連、炭労、電産、合化労連、紙パ、全国金属の6単産が集まり、のち化学同盟と電機労連が加わって8単産になりましたが、賃上げが主体でした。同年9月には、原子力船「むつ」が放射線漏れの事故を起こしましたが、中国電力は島根原発2号機の設置を目指しました。
 1号機自体は1977年3月に、ノズルにヒビが生じております。81年6月には配管から蒸気
 漏れ、同年12月には制御棒駆動系の挿入・引き抜き配管の表演に傷が見つかっていますが、それでも計画は進んでいきました。

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(2024年5月10日)

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