連載 原発の蔭と影第20回 島根2号機の誕生 天瀬 裕康

 遅まきながら米画「オッペンハイマー」(35㎜フィルム版)を観ました。原爆の父と呼ばれ、のちには水爆に反対したためソ連との内通を疑われ、失脚したロバート・オッペンハイマーを主役にした映画ですが、家族から見れば不満があったようですし、ヒロシマからいえば廃墟も被爆者も出てこないという不満がありますが、G7でも大切な所はカットされたように、7部門でアカデミー賞を獲得したとは、悲惨な人体被害は出さないということかもしれません。
 私の関心は、むしろ5月末に来日したお孫さんのチャールズ・オッペンハイマー氏の言動にありました。彼は6月1日に広島を訪れ、2日付け『中国新聞』によれば複数の被爆者と面会しており、「広島で米国・ロシア・中国の政治指導者が直接対話する機会を持つべきだ」と訴えた由。3日には都内の大学で講演し、午後5時から日本記者クラブで記者会見したので全国紙には朝日新聞のインタビュー等が掲載されたと思いますが、要するに第一は核兵器の禁止で、これに異存はありません。しかし、気候変動などの環境問題に取り組んでいる彼は、化石燃料の代わりに原子力エネルギーの平和的利用を推進しようと言うのだから、これには賛同できないのです。火力発電の代替えは、再生可能エネルギーにすべきです。
 これは基本的な問題ですから、一応、ここで止めて、中国電の原発へ話を戻しましょう。

 中国電の島根原発第1号機が営業運転を始めたのは1974年6月。当時の世相は、72年には田中角栄通産相の日本列島改造論で土地ブーム、73年10月は中東の産油国が原油価格を70%引き上げたので狂乱物価、第一次石油ショックです。エネルギー危機で省資源時代に入りますが、石油が高くて買えなければウランを買って原発だということか、島根原発1号機が営業運転を始めたのは74年5月でした。そして、さらに深刻な石油不足が予想される1980年代(昭和60年代前半)の電力事情に対応するためには第二原発の建設が不可欠と考えた中国電力は、77年7月に山口原子力準備本部を設置し、第二原発への道に踏み込んだのです。
 翌78年、当時の山根寛作社長は年頭の挨拶で次のように述べています。(要点抄録)「――10年後の石油不足時代に備え、石炭やガス燃料導入には努力しているが、太陽熱・地熱あるいは水素エネルギーなどの新エネルギーの実用化が棟目円期待できない以上、現行の原子力発電に相当の部分を担ってもらわねばならない」
 この時点で、太陽光発電の「サンシャイン計画」が生まれたように、他の再生可能エネルギーにも本気で立ち向かったなら、事態は多少変わったかもしれません。残念ながら政府はそれほど本気ではなかったし、各電力会社も安易に原子力エネルギーに寄り懸かったのです。ちなみに10月26日が「原子力の日」と定められたのは、1964年7月31日の閣議決定によるものですが、西尾獏著『反原発運動四十五年史』(2019年 緑風出版)によりますと、77年10月23日から29日までを「反原発週間77」して、東京の市民グループが原発の危険性をキャンペーンしたのが「反原発週間」の始まりです。また『はんげんぱつ新聞』の見本となる第〇号の発行が78年3月で、第1号の5月号では『反原発新聞』と漢字になっております。
 中国電の第二原子力発電所の候補地として最初に浮上したのは、山口県豊北町の神田岬あたりでしたが、地元の反対でうまくいきませんでした。これに関し『反原発新聞』第2号(1978年6月15日)は第1面に、「山口県豊北町長選挙 原発阻止派が圧勝」と報じています。86年には萩市への期待が高まりましたが、これもダメ。ちなに84年度末の全電源設備に占める原子力発電の比率は、電力9社平均が14%だったのに対し、中国電力は5%でした。
 島根原発2号機の増設については、1975年に島根県と鹿島町に構想を明かし、増設申し入れの備を進めていたが、79年3月に米ペンシルベニア州スリーマイルアイランド原発で放射線漏れ事故があり、地元の反原発団体から抗議運動が起こったので、申し入れは80年7月まで延ばされた。環境影響調査書一般説明会は中止され、70回にわたる地元説明会が開催され、厳しい情勢に対し懸命の立地活動を繰り広げたようです。81年1月には鹿島町立武道館で、通産省の主催による第一次公開ヒアリングが開かれ、20人の意見陳述人がそれぞれの立場から意見を述べました。こうして第84回電源開発調整審議会(81年3月26日)の審議を経て、2号機増設計画は国の電源開発基本計画に組み入れられ、中国電力は原子炉設置変更許可を提出しました。81年からは第4代社長・松谷健一郎の時代に入っており、83年5月には原子力安全委員会の主催による第2次公開ヒアリングが、松江市中原町の島根県立武道館で開催され、原発について賛否両側の地元住民、および住民の委託を受けた科学者・研究者32人が出席しました。計画に反対の人も出席し陳述するヒアリングは「島根方式」と呼ばれています。その後9月に設置変更の許可が得られ、用地取得や漁業交渉を行い、84年7月に本工事に取り掛かります。
 2号機増設の起工式は84年11月、松谷社長は、「これまでに頂いた関係各位のご理解・ご協力に感謝するとともに、工事中の事故・災害防止に万全を期し、安全で信頼される発電所の建設に努力していきます」と述べています。これに基づき、建設工事用水を賄うため構内に設けられた渓流水プール、発電所前の海底に設置した取水設備、大型機材を吊り込むための吊りジブ・クレーンによる原子炉格納容器据え付け工事、原子炉圧力容器吊り込み工事などが続きます。2号機の試運転開始は1988年7月11日、営業運転を始めたのは1989(平成元)年2月17日でした。

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(2024年6月14日)

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