連載 故郷福島の復興に想う 第12回 ――福島県立双葉高校創立100周年記念 谷本 多美子(アイキャッチ画像 双葉高校の現在)

 昨年、母校福島県立双葉高校の後輩から「来年は母校創立100周年記念祝賀会を予定しているから、ぜひ出席を」と連絡をもらった。「万障繰り合わせて参加します」とそのときは答えていた。後輩は母校の同窓会本部の会長でもあり、退職前の三年間は母校の校長でもあった。2011年3月11日から、母校は立ち入ることもできなくなってしまったが、この12年余り、たびたび母校を訪れては、その様子をフェースブックや、地元誌の記事を通して発信してくれていた。彼自身も地元誌の取材を受け、「どれ一つ見ても涙が出る」と話していた。
 2023年10月8日の祝賀会前一週間は毎日のように地元紙に母校の記事が掲載され、私のところにも彼からメールで送られてきた。祝賀会10日前くらいになって、身辺が急に忙しくなり、参加は諦めなければならなくなっていたので、居ながらにして母校の様子や、先輩、後輩たちの情報を知ることができてありがたかった。
 
 メールの第一報は卒業生の二人の記事だった。「双葉高 創立100年」のタイトルの隣に、後輩の題字が大きく、歩み固かれ 目は遠くと毛筆らしき文字で書かれていた。書き出しには、“東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生で2017年から休校している双葉町の双葉高校は、創立100年を迎えた。1923年(大正12年)に双葉中として開校以来、1万7600人余りの多彩な人材を輩出。卒業生は「質実剛健」「終始一貫」の校訓の下で培った強い精神力で、故郷の復興に取り組んでいる。各分野で活躍する卒業生の思いや歩みを紹介する”と綴られていた。3人目以降は毎日一人ずつ紹介されていた。 
 先ず一人目、被災者の健康管理に尽力した元日本医師会長で現在茨城県の某病院で名誉理事長を務める先輩(83)。
 二人目、村政かじ取り復興に道筋をつけ ○○村長を7期28年務めた先輩(85)
 三人目、「新たな景色」音符で描く 川内村生まれ、富岡町出身のミュージシャン(56)
 四人目、陸上に情熱「生き方」学ぶ 大熊町出身の元陸上選手(41)
 五人目、「百年の樹」永遠に刻む 創立100年の参加の作詞をした作家(62)
 六人目、歴史と伝統未来へつなぐ 同窓会長、元母校校長(75)
 七人目、白球追い続け夢の舞台へ 甲子園初出場持の三塁手(68)
 ※双葉高校野球部は甲子園に三回出場している

 今回取材を受けなかった先輩、後輩、同級生の中にも、母校の誇り、とも賞賛されるべき人々は数多くいる。また、賞賛されなくても、報われなくても、黙々と、誰かのために働く人もいる。が、挙げたら際限ないことだろう。何しろ卒業生1万7600人余りもいるのだから。
 祝賀会翌日は、同じ後輩からユーチューブにアップされた式の動画が送られてきた。双葉町の産業文化会館には200名を超える双葉高校関係者が集まっていた。もともと男子校から出発しただけあって、出席者は圧倒的に男性が多いと感じた。加えて来賓も福島県知事から始まって、男性がほとんどで、最後の方にPTA会長を務めた女性が二人表彰されていた。
 式典の初めに国歌斉唱があったのには驚いたが、これが教育現場の普通なのか、と、ある意味理解はした。来賓の誰もが異口同音に、双葉高校がいかに伝統と歴史のある高校であるか、優秀な人材を輩出してきたか、2011年3月11日の東日本大震災、続く東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故によって生徒たちがどれほど苦難の道を辿ったか、しかし、必ずまた復活して双葉の地で双葉高校を再開させなければならない、と述べていた。校訓の、質実剛健、終始一貫も申し合わせたかのようにあいさつに含まれていた。
 双葉高校に入学し、挫折し、早く卒業することばかりを考えていた筆者には、眩しいばかりであった。双葉高校の生徒であった三年間、校訓を意識することもなく、校歌など、楢葉標葉ならはしねはいにしえの、名も遠きかな大八洲、と蚊の鳴くような声で歌っていた。土井晩翠作詞であるのに。
 1959年4月、福島県相馬郡小高町福浦中学校から双葉高校に進学した女子は筆者一人だった。竹馬の友の同級生はすぐ隣町の浪江にある女子高に進んだ。ときどき会う彼女から、高校生活が楽しいと聞かされ、双葉高校に入学したことを後悔したこともあった。
 入学の動機は、双葉町出身の父や、中学の担任からの勧めがあり、筆者自身も漠然と大学への進学を考えていたこともあったからだったが、いざ入学してみると、一クラス50名の中に女子は10名、しかも知っている友人もなく、わかっていたことではあるが、異様な雰囲気を感じるばかりだった。
 が、まだ純粋な高校1年の少女のこと、女子同士が固まっているうちに、次第に連帯感が生まれ、それなりに楽しみを見つけるようにもなっていった。しかし、思い出されることといえば挫折したことばかりだ。生家から4キロメートルの浪江駅まで自転車を飛ばし、列車で双葉まで行くのだが、1列車乗り遅れると1時間は待たなければならない。夜中に音楽を聴いていたりすると、朝にずれ込み、1年に一回くらいは遅刻していた。遅刻の日は女子の更衣室で次の授業が始まるまで静かに待機していた。更衣室の隣が体育の教師たちの部屋になっていて、彼らに悟られはしないかと、気が気ではなかった。
 進学希望者は課外授業を受けるのだが、よく居眠りをしていた。物理の授業がわからず、期末テストに白紙で提出した。それでもゼロ点をつけなかった物理の教師を忘れることはできない。校内マラソン大会ではいつも落伍者だった。途中で学習意欲が薄れたとき、自分を叱咤激励して勉学に励むかといえばそれもしなかった。質実剛健、終始一貫などどこ吹く風、のような高校生活だった。校歌の中に、歩み難かれ 目は遠く とあるが、努力していないので、他人事だった。
 身の置き所がないような思い出ばかりだが、筆者の高校時代、1959年のころ、最終学歴が高卒は普通だった。中学卒業生の集団就職もまだ聞かれる時代だった。同年代の若者が社会で苦労しているときに、三年間も自由に過ごせる場所と時間があった。やはり、双葉高校は筆者にとって人格形成の大切な時期、かなり大きな影響を受けた学び舎だった。

 式典の最後に、3.11の年に双葉高校生であった後輩の宣誓の言葉があった。双葉高校が休校中でなければ、在校生が宣誓を行うところであるが、と前置きして彼は話し始めた。後輩の言葉を要約すると、3.11のときから、大きく運命が変わった。何の情報もないまま着の身着のまま避難し、想像もしていなかった原発の爆発、それから自分たちの生まれ故郷には自由に立ち入りできなくなった。原発の状況が一刻一刻悪化していく中、高校3年になろうとしていた自分たちはこれからどうしていけばいいのか、不安でたまらなかった。
 日が経つにつれ、他校へ転校という苦渋の決断をする友達も出てきた。その後、新たにサテライト校で授業は再開されるが、慣れない環境では多くの不安があった。教師たちも、自分も避難の身でありながら、各サテライト校を回って生徒たちを支えてくれた。今は亡き担任が卒業式のホームルームで彼らに語った。
「高校3年間の最後の時を、十分な学校生活を送らせてやれなかったことが、ほんとうに悔しい。おまえらに申しわけない。でもこの震災の経験はおまえらにとって決してマイナスではない。これからを一生懸命生きろ」
 後輩は担任の言葉に涙しながら、先生の意思を未来に繋いでいこうと決心し、現在担任と同じ道を歩んでいるという。最後に彼は言った。「福島県の本当の意味での復興実現のために、教職を選んだ。双葉郡の復興はまだこれからだけれど、着実に前進している。双葉高校の校訓を胸に、100年、またその先の歴史へと繋いでいくために、地に足をつけて、しっかりとした目標をもって教壇に立ち続けることを誓う」
 会場から大きな拍手と歓声が上がった。

 3.11、原発事故により、サテライト校で授業を行った高校は浜通りで10校に及ぶ。生徒の一人一人、想像を絶する過酷な状況に置かれたことだろう。後輩が、着実に前進している、と言った双葉郡には、まだ多くの立ち入り禁止の場所がある。双葉高校のある双葉の海岸には、2度に亘ってトリチウムを含む処理水が海洋放出された。元京都大学原子炉実験所助教授の小出裕章氏の講演を先日オンラインで聞いた。彼ははっきり言った。「トリチウムは放射能です」と。小出氏は「原発事故はまだ終わっていない」とも言った。広島、長崎、第五福竜丸、があるのに、核に対して無関心、無責任であった筆者も含む大人世代は、孫子の代まで核問題を背負わせてしまった責任をもっと感じるべきだと、孫のような後輩の宣誓を聞いて思った。

双葉駅周辺 鈴木孝光氏撮影

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