連載 故郷福島の復興に想う 第14回――核無き世界を願って鐘は鳴る 谷本 多美子(アイキャッチ画像 同慶寺鐘楼)

 間もなく東日本大震災、福島第一原発爆発事故から13年となる。事故当時に生まれた子供たちは13歳だ。現在の13歳の子供たちに、東日本大震災や福島第一原発事故のことを聞いてもほとんど知らないと言う。国内の、一つの県だけで起こった事故のことなど、時間の経過とともに人々の記憶から薄れてしまう。大人でも語り継ぐ責任も義務も感じていないのは当然と言えるのかもしれない。そんなことを考えて迎えた新年だった。

 2024年は最悪のスタートとなった。まさかの大規模地震に、13年前のわが故郷の大震災、原発事故の記憶が重なって、ニュースもまともに見られなかった。耳を塞ぎ、目を閉じようとしても、最悪のニュースがまたも飛び込んできた。牙をむいた大地震に交通網が寸断され、空から物資を運ぼうとした海上保安庁の航空機と日航の旅客機が羽田空港で衝突事故を起し、死者まで出てしまった。酷すぎる事故を受け止めないわけにはいかなかった。
 冬の能登半島の寒さを思うといたたまれない。倒壊した家屋の下で、津波で、232人もの方が亡くなり、今なお22人の方が安否不明だ。初動対応がもっと早ければ、助かった命がもっとあったかもしれない。が、すべて結果論だ。二週間以上も過ぎて、避難生活が長引き、震災関連死も数えられるようになり、深刻さは増すばかりだ。
 1月18日(木)朝日新聞の朝刊一面に輪島の中学生258人の集団避難の記事が掲載されていた。寿々・能登140人は21日金沢へ。県教育委員会によると、輪島市から生徒と同行した校長や教員、養護教員らは計25人、生徒は相部屋で生活し、教諭がスポーツ宿泊施設の研修室や市内の中学校校舎で授業をするのだそうだ。スクールカウンセラーも配置し、保護者と会う機会も作るようにするとのこと。県としては最善の方法を考えたのだろうが、大地震や津波で心に傷を負った子供たちが、さらなる傷を負わないように十分に配慮して欲しい。福島の子供たちは、家族も、学校も、コミュニティーもバラバラになり、避難先の学校で苛めに遭うなど二重三重の苦しみを味わっている。事故当時子どもだった人々の中には、いまなお甲状腺癌の恐怖に怯えている人もいる。いつのときも、震災や人災、戦争や紛争などで犠牲になるのは最も弱い立場の人々だ。その中でも子供たちの犠牲は痛まし過ぎる。

 2017年4月の“脱原発社会をめざす文学者の会”による福島視察の折、南相馬市小高区にある同慶寺を訪ねた。相馬藩主の代々の菩提寺だ。住職は不在だったが、大震災、原発事故による避難生活で荒れたはずの建物も境内もすっかり手入れが行き届き、故人を弔うにふさわしい、歴史の重みを感じさせる寺が蘇っていた。
 その後コロナ禍もあり、脱原発の会(略して)としての福島訪問は再開されていないが、6年たった2023年、お盆の、住職にとっては多忙を極めておられる時期に、檀家の一人である筆者の友人を介して住職の田中徳雲氏と電話で話す機会を得た。
 田中氏は、原発事故が起きる前から原子力発電所について、勉強会を開いていたので、放射能についての知識は玄人並みに得ていた。13年前、震度6弱の地震がきたとき、24時間以内に原発が危ないと察して、いち早く家族と一緒に避難をする。避難先は福井県だった。永平寺で五年間修行をした田中氏は、福井がもっとも避難しやすい場所だった。福井の人々に好意的に受け入れられて、2年間を過ごす。この間田中氏は200回に及んで南相馬市と福井を往復することになる。
 震災で亡くなった人々や、原発事故震災両方での関連死した人々の弔いのためでもあるが、多くは避難所の人々の必要に答えるためだった。
「お年寄りの方は遠慮して、なかなか困っていることを言わないのですよ」
 田中氏は一人一人、高齢者の必要に答えようと通っているうちに、200回になったのだ。南相馬市から避難した筆者の母も、一年間お世話になった避難所で、たびたび意識を失うほどの体調不良に見舞われ、入退院をくり返した。高齢だからばかりでなく、避難所に問題があったからでもなく、物事を優先的に決めるのは一緒に避難した母にとっては次女の娘であったために、ずいぶんと遠慮があったのだと、田中氏の話を聞いて気がついた。
 後日、田中氏からDVD3枚の動画と、冊子二冊が送られてきた。DVDのタイトルは“大地といのちの祈り”(2枚)、“子供らに寄せて”と、冊子『原発事故後の福島で生きる』~七世代先の子どもたちのために~、『生命平和憲法いのちのうた』だ。DVDは2013年と2014年にかけて、南相馬市の被災地や山口県祝島を、アメリカインディアンのデニス・バンクス氏がスタッフとともに訪れ、祈りをささげて田中氏たちとも交流した記録だった。デニス・バンクス氏は、住む土地を追われた民族として、福島も同じだと言い、ぜひにと福島訪問を希望した。田中氏も原発事故が起きて2、3年の被災地を、鳴り止まない線量計を抱え、危険を覚悟で巡回し、祈りを捧げていた。
 彼らの語るひとことひとことが迫ってくる。バンクス氏は、大地を、母なる大地、と呼び、その中にある、草や木、生き物たちは私たちの兄弟、親戚だという。
「同慶寺の中で大銀杏の木の放射線量が一番高かった。木や草はじっと耐えているのです」
 田中氏が語る言葉の一つ一つも重い。子供たちのために、と題して語っている。

「現在、日本政府による調査では、健康への原発事故の影響はないとされています。個人的な意見ですが、原発事故による子供たちの健康被害、そして調査のあり方そのものにも問題があると思います。スピーディ情報の隠蔽をはじめ、政府や福島県の対応には残念ながら不信感を抱いています。―中略―あのパニックや、地域の離散、長期避難生活など生活の変化による運動不足や精神的ストレス、そして放射能汚染地域での片付けや生活再建作業等、総合的に免疫力も低下し、今、その症状が出ているのだと思います。ましてや原発事故のあった地区で、放射能の影響は考えられないなどと、どうして言い切ることができましょうか。なんと傲慢で、優しさやいたわりのない社会なのでしょうか。怒りを通り越して悲しみ、哀れみさえ感じます。―後略」(原発事故後の福島で生きるより)

「物質文明に慣れてしまい『くさいものにふた』をして命より、快適さを優先してきた福島の問題は、私たち一人一人の問題。智慧と創造力で『今』をどう生きるか、もう一度考える時…」(大地と命の祈りより)

 当時南相馬市鹿島区の仮設住宅に住んでいた藤島昌治さんの詩も味わってみたい。鹿島区は避難指示が出た原町区の隣の区だが、線引きされて1円の賠償金も出ていない。

 姥捨て山

 大きな 大きな地震があって
 津波が全てを呑み込んだ
 原子力発電所が大爆発して
 放射能がふりそそぎ
 人々は 命からがら
 先を争って逃げました

 長い時が流れて
 そこには
 ポツリ!ポツリ!と
 としよりだけが暮らしていました

 南相馬市鹿島区仮設住宅に住む藤島昌治さん詩集『なんじょすっぺ』より

 この詩に対しての批評を、何人であろうとしてほしくない。死の淵に立たされた人の、心の叫びなのだから。
 DVDの中に田中徳雲氏が鐘を突く姿があった。静かに鳴り響く鐘の音には、田中氏の核無き世界、平和な世界への祈りが込められているようで、いまも耳の底に残っている。

同慶寺銀杏

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