連載 故郷福島の復興に想う 第15回――神奈川避難者と共に歩む会に参加して 谷本 多美子(アイキャッチ画像 歩む会談話室)

 2024年2月3日節分の日、横浜市中区の波止場会館で行われた「神奈川避難者とともに歩む会」のイベントに参加した。筆者の母と妹も神奈川に避難していたのだが、二人の体調不良と、彼女たちのケアを筆者一人で担っていたために、精神的にも余裕がなく、一度も参加できずに今日まできてしまった。その母も亡くなり、歩む会とはますます距離が開いてしまっていたが、今回は歩む会前会長、現福島県人会浜通り会会長鈴木實氏のお声掛かりで、鈴木氏とともに浜通り会の一メンバーとして参加させて頂いた。
 波止場会館は横浜市のコミュニティーセンターだ。この日五階建てビルを全館を借り切ってイベントが行われた。文字通り、東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で被災し避難した人々のためのイベントだ。
 2011年3月時点で,神奈川県に避難した人々は2000人を超えていたと、前会長の鈴木氏より聞いた。鈴木氏を頂点として、神奈川県ではいち早くボランティア団体「歩む会」を立ち上げ、避難者の支援を始めた。鈴木氏も実姉を津波で失い、未だに安否不明とのこと、痛みを共有しつつ、現在も避難者に寄り添っておられる。
 談話室になった入り口には、色画用紙に手書きで『談話室』「久しぶり!! 元気だったげ!! 今日はたくさん話そうね!!」と書かれていて、手作り感が溢れていた。ちなみに、元気だったげ、というのは浜通り地方のどの地域で使われているのか筆者は認識不足でわからないのだが、元気だった?という意味だ。入り口付近に「能登半島地震被災者支援募金」の大きな瓶が置かれ、朝の時点ですでに口までいっぱいになっていた。
 五階建てのビルの各階毎に無料で、法律相談、生け花教室、名刺制作サービス、などの場が設けられており、誰でも自由に参加できた。合間に談話室で懐かしい歌をピアノに合わせて歌う時間があった。真っ先にリクエストがあったのは「ふるさと」だった。筆者も一緒に声を合わせて歌った。歌詞を味わいながら歌っているうちに、感情がこみ上げてきて、歌えなくなった。しばし俯いていると、助け船のように次々に「学生時代」「翼をください」「エーデルワイス」「この広い野原いっぱい」などリクエストが続いて助かった。

 談話室で一人の大熊町出身の渡部さんという女性から話しを聞くことができた。彼女は、実家も嫁ぎ先も大熊町であったために、どちらも東京電力福島第一原発爆発事故による放射性物質の中間貯蔵施設になっているという。F1(福島第一)原発事故が起こったとき、F1の子会社で働いていた息子さんが「何してんだ! 早く逃げろ!」と駆け込んできた。渡部さんはすでにご主人を亡くしていて、一緒に住んでいた姑、実家の母と急遽避難することになった。
 緊急の避難に当たっては自衛隊のトラックが任務に当たっていたのだが、高齢者、幼い子供、体の弱い人を優先的に、といわれ、姑、実家の母を先に行かせて、別々に避難するわけにいかない、と独自で自家用車で,関東に嫁いでいた娘さんの所に向かう。道中どれほどの苦労があったかは、想像に難くない。食べ物もなく,ガソリンも不足する中、避難所はどこもいっぱい、断られるたびに他を探して転々としなければならなかったと、どの被災者の誰もが異口同音に言う。渡部さんも例外ではない。
 今渡部さんは神奈川ではなく、埼玉に居を構えている。大熊町だから、東電の賠償金の対象になる。しかし、賠償金は申請しなければもらえない。そのために記入しなければならない難解な文章の書類は山ほどある。避難生活を続けながら、実母と姑をケアしながら、官僚が政治家のために書くような複雑怪奇な文章、作成者しかわかり得ないような様式の書類を読んで、相手が求めるように記入するのは、困難を極めたことだろう。筆者も仕事を抱え、自分の生活もあるのに、母をケアしながら(途中から母と妹は別世帯になる)、書類の作成をするのは、まさに命を削り取られる思いだった。このままではほんとうに死んでしまう、自分が倒れたら、施設に入所している父も、避難中の母も、行き場がなくなってしまうことに気付き、途中から、東電社員のサポートに頼ることにした。
「ご迷惑をおかけしております」と、毎回あいさつを受けながら、二人の社員に書類の記入から投函まで手伝ってもらった。説明に見える社員は2~3回同じかと思うと、次は違う社員に代わっていた。あるときは1回だけのこともあった。訪問先によっては土下座させられたと、直接ではなかったが聞いていたので、社員の交代は仕方がないと理解もした。渡部さんの苦労が自分のことのように蘇った。
 幾人かの人々に出身地や、現在のおおざっぱな住所を聞いているうちに、事故直後は神奈川に避難した人々も、現在は、埼玉、千葉、東京などにそれぞれ移住をしていることがわかった。今は現住地にすっかり馴染んで落ち着いて見える人々も、同じ境遇に追い込まれた故郷の人々との交流は、必要不可欠なのだろう。
 故郷は、自己のアイデンティティの原点だ。その故郷を失った今、同じ痛みを抱える人々同士、集まって、語り合って、笑って、ときには泣いて、自分を取り戻しているかのように筆者は自分に置き換えて考えたのだった。

 談話室の下の階に、母校福島県立双葉高校の50年前の新聞が展示されているので、是非見るようにと鈴木氏に薦められて見に行った。ある原発事故の被災者の自宅で見つかったのだと聞いた。全部読んでいる時間がなかったのでスマホで写真を撮ってきた。残念ながらスマホの写りが悪く細かい文字が不鮮明だが、見出しやいくつかの項目は文字が大きいので、要旨は掴めた。
『原子力発電の安全性を問う』が表題だった。副題は、期待される“第三の火”不十分な安全性の確立、となっていた。各項目を順不動で羅列すると、「安全性に焦点―地域住民意識調査から―」「放射能障害は皆無か」「環境破壊の不安―温排水」「どこへ捨てる放射性廃棄物」「断言できない安全性」「事故は起きない? 幾重もの安全装置」「廃炉後は公園に」「望まれる正しい理解」などが挙げられていた。
 今から50年も前に原発に対して問題意識をもっていた彼らを誇らしく思った。聞くともなく聞こえてきたのだが、せっかくの新聞も、校内だけで終わったらしい。今も記事を書いた彼らが健在ならば、自分たちの疑問は現実になってしまったことを知り、どのように思っているだろうか。
 後輩たちが感じた危機感は現実のものとなり、未だに解決どころが、先も不透明な原発事故、事故当時から福島に心を寄せ、見守ってくれている知人I氏が、このたびの能登半島地震による志賀原発への不信感、怒りを語ってくれた。
「私の独り言をお聞きください」と前置きして、能登半島地震の余震、南海トラフ地震の予見、などを鑑み、原子力規制委員会の悠長な発言に疑問を抱かざるを得ません。―中略―志賀原発では…1/01当日に「火災が発生」と発表した後…翌日には「火災は発生していない」…と発表。「火のないところに煙は立たない」です。怒りもありますが、優先すべきは、地盤の特異性における、また、想定外?の津波被害への「安全対策」と「正確な情報開示」であります。東電と委員会の「お座なりな関係」は、国民、日本、世界に対する『冒涜』以外の何者でもないように考えます!
 追伸として、志賀原発、現状の防波堤の高さで、津波被害をほんとうに防げるのでしょうか? 「想定外」、この言葉で逃げ切った先には…多くの健康被害、更なる国土の汚染、恐ろしく膨大な費用と長い歳月を要することは、既に、忘れ去られたのでしょうか?
 福島原発事故の教訓が全く生かされていないのは、至極、残念でなりません!!

 50年前に新聞記事を書いた若者のような人がいる限り、「歩む会」を続けている人々がいる限り、I氏のように真剣に福島と向き合っている人がいる限り、まだ大丈夫日本!と、新しい年、思いを新たにした。

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