連載 文士刮目 第23回目 東日本大震災13回忌に思う【つよくなろうとつぶやいた】 伊神 権太

 死者・行方不明者(関連死含む)が2万2212人と戦後最悪となった東日本大震災から3月11日で12年。13回忌を迎えました。警察庁によれば、死者が1万5900人、行方不明者は2523人。死者のうち53人は遺体こそ見つかりましたが、今も身元は分かってはいません。ほかに震災や原発事故に伴う避難で体調を崩すなどして亡くなった関連死が3789人、自殺者となると248人に及びます。13回忌を迎えたところで私自身、被災地とこれまでどう向き合ってきたか。今は亡き方々への〝熱き思い〟を込め、振り返ってみます。

 2011年3月11日午後2時46分ごろ、三陸沖の東南東130キロ付近、深さ約24キロを震源に起きたマグニチュード9・0の巨大地震。発生して約2週間後の3月26日早朝。当時、私は既に第一線の新聞記者を離れ、敢えて言うなら名もなき〝退役記者〟だったのですが。東日本の被災地をこの目で確かめなければ、との強い衝動にかられ、今は亡き妻に送られ自宅を出発。東北新幹線の行き止まり那須塩原駅からは〝緊急〟と窓ガラスフロントに書かれた臨時バスに乗り、郡山経由でいわき市へと向かいました。
 いわきに着いてからは至るところ明かりが消えた街なかで一台だけ、やっと見つけたタクシーに乗り運転手さんと共に宿を探し回り、辛うじて再開したばかりの郊外ホテルを見つけて投宿。翌朝早く、このタクシーで小名浜の被災現場へ。ここで下車後はただひたすらに廃墟と化し、ガレキの山ばかりが延々と続く塩屋埼灯台直下に広がる海沿いの被災地を半ば放心状態となり、歩き続けたのです。海を右手に現場を最初に歩いた時の衝撃は今も大きく目の前に浮かび上がってきます。
 あの時のもようは後に出版された私の著作「海に向かいて―前(瞬き)・後編(トシコさん、風に立つ)/脱原発社会をめざして」=「ピース・イズ・ラブ 君がいるから」(人間社刊)所蔵=と「脱原発社会をめざす文学者の会」の雑誌「OFF」第1号と第2号にも掲載されています。読者のみなさまには、大震災の13回忌を機にぜひ読んで頂けたら、幸いです。そして。私は、といえば。その後、いわき市ばかりでなく楢葉、広野町はじめ富岡、大熊、双葉、浪江町、飯舘村、南相馬市から名取市、亘理町、さらには多賀城市、仙台市、山元町…と再三にわたって被災地に一人で足を運び、巨大な嵩上げや復興の現況などにつき私が主宰するウエブ文学同人誌「熱砂」紙上でそのつど、〝一匹文士〟としてリポート。反響の大きさには驚きました。

嵩上げ工事の一方で浜の緑化も年々進んだ。

 当初、名古屋駅のバスターミナルから高速バスに飛び乗って現地入りしたことは何度か。時には、母のない子が立ち尽くして見守るように目の前を、巨大なガレキの数々が次々と撤去されていく、まさに目まぐるしく変容する被災地の「今」を【大震災から3年 被災地と塩屋埼灯台】という名のユーチューブなどで発信。ほかにも、慣れない映像で現地からリポートしたことは何度かあります。
 そして、時の流れと共に今度は私自ら所属した「脱原発社会をめざす文学者の会」の仲間たちと、いわき市はじめ、浪江町の請戸小学校や南相馬町の被災者たちが住む仮設住宅、ほかに原発が立地する富岡、大熊、双葉町にも。さらに除染作業で出た放射性物質が付着した土や廃棄物を入れた黒づくめのフレコンバッグの山を横目にしながら飯舘村へも。今は亡き精神科医で作家の加賀乙彦さん(当時、同文学者の会会長)、同じく後を追うように亡くなった編集者山本源一さん(同文学者の会初代事務局長、日本ペンクラブ元環境委員長)らと共に、各地を歩いた日々が胸を去来しています。亡き人々の脱原発社会にかける思い。その強い意志を忘れるわけにはいきません。

 加賀さん、〝源さん(山本源一さん)〟が健在だったころ。こんなことがありました。
♪つよくなろうとつぶやいた/そんな自分が可愛くて/涙ぬぐったその指を……
 私がいつものように被災地を訪れた際、決まって足を運ぶ塩屋埼灯台直下の美空ひばり像から流れてくる歌声をスマホに収録。〝源さん〟経由で加賀さんにもその映像を送ったのです。加賀さんは、生前のひばりさんとは親交があったと聴いていたので送ったのですが、しばらくして源さんから「伊神さん。加賀さん、とても喜んでおいででしたよ」の連絡が入った時には感激したものです。

※    ※    ※

 訃報と言えば、私と同じ愛知県江南市に住み、夏が訪れると決まって自らの空襲体験について市民を前に話し、ノーモア戦争を訴え続けてこられた「脱原発社会をめざす文学者の会」会員でもあった長谷川園子さん=<あゝ炎の鯱><炎の川>著者=。彼女も、ことし3月23日にがんで命の扉を閉じられました。享年92歳。亡くなる直前、私は病床に彼女を伺い、愛用のハモニカで<赤とんぼ>を演奏。長い間、平和の代弁者としてよくぞ-と感謝の気持ちを伝えました。
 太平洋戦争さなか。米軍による名古屋大空襲があったその日。昭和20年5月14日。低空飛行してきた米軍機からの空襲に逃げ回った軍国少女、園子さんは自宅近く惣兵衛川の土手から。そして加賀さんも当時、名古屋陸軍幼年学校に在籍しており、名古屋の地で名古屋城が焼け落ちるその瞬間を、それぞれ別方向から見ていた。東京での文学者の会のあとの懇親会でふたりはワイングラスを手に衝撃的だった〝その時〟の話しをしながら「戦争は、もう二度としちゃあいけないよね」と語り合っていました。
 連れ立ちていで来し見れどただ黙し 炎となりし川の面見ぬ
「地獄だね」
 ポツリと母が独りごちた。
=(OFF第2号「原爆と原発どっちも同じ ➊名古屋城炎上 長谷川園子」から)

 あの日のおふたりの表情は今も忘れるわけにはいかない。  ―合掌

(2023/4/7)

元気なころの長谷川園子さん(中央メガネの女性)。園子さんの誕生日の集いで。

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