連載 故郷福島の復興に想う第4回 干拓は必要だったか 谷本 多美子(アイキャッチ画像 2021年4月の井戸川 高橋隼人氏撮影)

 生まれ育った故郷南相馬市に帰る家はもうないのだが、祖父の代からの土地がまだあちこちに残っている。先祖たちが苦労して手に入れ耕してきた土地が、今では荒れ放題で、あること、が負担になっている。原発事故により、その負担はさらに大きなものとなった。いつかは相続もされないまま放置されることになるのだろうが、せめて私が生きているうちに息子に伝えようと、年に一度は帰省することにしている。
 小中学校の同級生の一人Sさんも、隣町の浪江に嫁ぎ、仕事と家庭を両立させながら、子育てをし、子どもたちのために、と家屋敷のほかに畑など少しずつ増やしていたのだが、原発事故により、すべて放置せざるを得なくなって、今は夫婦二人で原町に移住している。彼女は言う。「土地どころか、お墓も無縁仏になっていく家が増えているんだよ」
 少子化が進む日本、都会ではお墓を継承する子孫がなく墓じまいをするケースは珍しくないが、地方で墓じまいは、原発事故以前はないとはいえないが、ないに等しかった。墓じまいよりも悲しいのは放置されてしまうお墓だ。筆者の実家も祖父が昭和初期に福浦村下浦(南相馬市小高区)に移り住んでいる。祖父は相馬藩士だった人の財産を家ごと購入したのだが、先住者の墓はそのまま残っている。今しばらくは筆者が帰省した折りに墓参りはするつもりだが、こちらもやがては筆者の先祖たちと一緒に無縁仏になっていくのだろう。
 こうなってみて思うことは、2㎞先の井田川から下浦、行津にかけて干拓地が広がっているのだが、はたして干拓する必要があったのかということだ。子どもの頃、田植えなど手伝わされたが、場所によっては子どもの腿までぬかる田圃もあった。井田川から行津にかけて、潟が広がっていた証拠だ。もし潟のままであったなら、豊富な魚介類が生存していて、先祖代々漁業に従事する人々が周辺の安全な場所にだけ居を構えていたことだろう。干拓地にならなければ、井田川の人々も下浦の人々も移住してくることはなく、3.11のときに地震や津波に襲われ命を落とすこともなく、原発事故で故郷を追われることもなかった。
 井田川の干拓事業を行ったのは、太田秋之助という、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家、衆議院議員、福島県会議長、福島県相馬郡石上村長(ウィキペデアより)などの経歴の持ち主だ。彼が1921年(大正10年)1月に相馬郡福浦村井田川浦(現南相馬市)の干拓事業(185町歩開田)を完成させた(ウィキペデア)。平方メートルにすると計算違いでなければ1,834,710.74㎡になる。子どもの頃から見慣れた風景の中にあった水田地帯だ。
 数字だけだと広大な水田地帯に見えるが、日本が人口増加により食糧難の時代にあったあのころ、干拓地の生活は楽ではなかったと思う。今は朽ち果てようとする井田川神社の境内に太田氏の銅像がひっそりと立つ。

3.11津波後の井戸川浦尻地区 髙木成幸撮影

 中学の時、作文の上手な下級生がいた。彼女が母を亡くして書いた作文が校内で放送されたことがあった。母も祖母もいた筆者には、多感な頃に母を亡くすということがどれほど悲しいことか、理解できなかったが、心打たれた。彼女の家は井田川の海辺の松林の中にあった。古い板きれのような材木を寄せ集めて建てた掘っ立て小屋のような家だった。あのときのことを振り返ると、敗戦後、どこからか引き上げてきた家族ではないかと思う。妻に先立たれ、子どもを抱えて、厳しい生活を強いられていたことだろう。ちなみに松林は国有地で、あの家は違法建築だったことになる。あのときの父娘はどこから来て、どこに行ったのか、井田川の住民だった知人に聞いても知らないという。
 井田川ばかりではない。筆者の子ども時代、下浦でもわずか三十数戸の小さな集落に殺人事件も起きている。貧しさゆえに起きた兄弟間の痛ましい事件だった。貧困線以下の生活を強いられていた人々があるかと思うと、○○様と呼ばれる家が四軒もあった。いずれも相馬藩士だったと思われる。その家の一軒、藤田様の財産を筆者の祖父が買い受けたのである。聞くところによると藤田様と、ほかに2、3軒が一緒に信用組合を作り、倒産の憂き目に遭い、財産を処分して、南米や北海道に移住して行った。最後まで残った○○様は2軒、小さな集落の中でも財産家であったと思う。今は彼らの子孫も故郷を離れて暮らしている。
「何もかも原発のせいで……」とある知人が漏らした。彼女は集落の中でも裕福な家庭に生まれ育ったが、5歳で父親を亡くし、長じて結婚して家を出てから20歳だった妹も亡くしている。敗戦後の混乱期、ハワイ出身の父はもう一度人生をやり直して妻子を迎えに来る、と約束して帰って行ったハワイで、交通事故で亡くなった。彼女の家の歴史や彼女の人生は、ドラマよりも数奇だ。嫁ぎ先が浪江の放射線量が高いところであったばかりに、今は夫婦二人、いわきで暮らす。
 自分の意志によるわけでない、誰かのせいでもない、気付いたらそこにいて、もがきながら、それでも、今を乗り越えれば明日があると信じて人は生きている。筆者の場合はそうなのだが。いかに人生が悲惨であっても、人は存在そのものを肯定されなければならないと強く思うのだが、なぜ存在を否定したり、されたりすることばかりで起こるのだろうか。
 先日日本ペンクラブ平和委員会主催の講演会にオンラインで参加した。「ウクライナ侵攻から1年 ロシアの国内状況について」と題して、朝日新聞編集委員兼広島総局員 元モスクワ支局長 副島英樹氏の話を聞いた。まだ大部分理解しきれていないが、副島氏が1980年代の頃として語られたことで、ショックを受けたことがある。「80年代、ロシアでは女子の大学生は売春をしなければ学費を払えなかった。警察官はねずみ取りをして妻子を養っていた。タクシードライバーも違法行為をしなければ生きていけなかった」。かなり酷い話しだが、気付かされたことがある。
 1980年代のような生活を強いられているロシア国民がどれほどいるか知らないが、彼らに今起きていることを尋ねても、そんなことより空腹を満たしたい思いが先立つのではないか。かつての日本もそうであったように。故郷下浦でも、11㎞先の大熊町に核発電所が造られる、と話しが伝わったとき、人々はどれほど深刻に考えただろうか。11㎞は車社会ではないあの時代、結構な距離だった。どこか遠い国の出来事くらいにしかとらえられなかったかもしれない。
 仮に反対したとしても、大熊町、双葉町は、1961年に両町長名で福島県と東電に誘致を陳情し事業促進に全面的に協力する旨を書面で約束している(原発と共に歩んできた大熊町の姿 福島県本部/大熊町職員労働組合より)。強硬に反対すれば、村八分、という仕打ちが待っていたことは、筆者も村社会に生まれ育っているので容易に想像できる。

 今年になって下浦行政区長から送られてきた昨年度の活動報告、今年度の予定、その他諸々の報告の中に、一軒の住民の離脱届けがあった。3.11以後下浦には居住していないが、離脱しても土地は残る。筆者は故郷を離れて久しく、居住はしていなかったが、土地があるのは同じだ。本来なら、母が他界した時に住民の名簿から外してもらってもよかったのだが、あえてそうしなかった。放射線量が高く危険なときも、村人たちは防護服に身を包んで何度も故郷に一時立ち寄りしていた。人々の故郷への思いによって辛うじて集落が消滅することなく守られてきたと思っている。昨年一家族が加わって、下浦は五家族になった。将来のことは誰にもわからないが、小さなコミュニテイが存在するのは確かだ。心だけは故郷から離れないようにしたい、と思っているのだが、不安材料がまた増えた。
 岸田政権が、原発の新規建設や60年を超える運転を認めることを盛り込んだ「GX(グリーン・トランスフォーメーション)実現に向けた基本方針」を閣議決定した、と2月11日付けの朝日新聞朝刊に載っていた。12年経つので、福島の事故はもう終わりにするつもりか。まだ問題は山積しているのに。1961年、双葉、大熊町長たちが、東電に原発の誘致を陳情にいったときのようなことが起こっていないか、疑問は次々に湧く。

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