だら(馬鹿)ほんながかいな(そうなんですか)どんならん(どうにもならない)どい
ね(それどうなの)おらっちゃ(私たち)どしとん(どうしているの)きのどくな(あり
がとう)へしない(たいくつ)しったくさい(生意気)おっとろしい(怖い)…
かつて新聞社の記者として能登半島の七尾にいたころ、【能登の方言】という連載を能
登版で支局長だった私自ら、日常会話を例示しつつ連載。その土地の言語を知ることこそ
が地方の人びとはじめ生活、文化、風習などそこならでは、の「能登の顔」をより深く知
ることになると、そんな熱き思いからでした。
そして、その「能登の方言」の連載を読者として、とても楽しみにしてくださっていた
当時の七尾市立図書館の女性館長から「一冊の本にぜひ、まとめてくだい(ください)。
貴重な書物になるはずですよ」との温かい助言まで頂いたが余裕がなく、1冊にまとめる
ことはかなわなかった。今思えば、あの時、書籍化しておけば、とつくづく反省。後の祭
りとは、まさにこのことです。
それでも、日常会話の具体例を示す連載だったこともあってか。読者に好評でした。と
いうわけで、能登の方言となると、今も自ずと口から出てしまうのです。どいね(どうで
すか)とか、いちがい(頑固)なとか、しゃわしきない(落ち着きがない)など。いろい
ろあります。

その愛する能登が昨年元日の能登半島地震、さらには追い討ちをかけるように9月21
日に起きた線状降水帯発生に伴う観測史上最大の1時間に121㍉という能登豪雨水害に
泣かされました。あの【能登はやさしや土までも】のことばで知られる純粋そのものの<
能登の人々>が何か悪いことでもしたというのでしょうか。そう思うと、私はとても悲し
くなってしまうのです。
というわけで、私は能登に限らず松本、伊勢志摩、岐阜、滋賀…と歩いてきた先々でそ
の土地の言葉を今は亡き妻ともども大切にしてきました。そして。2011年3月11日
の東日本大震災と福島第一原発事故の発生後には、たびたび現地を訪問。そんなこともあ
って今はどこであれ、被災地の人々の言葉はどこまでも大切に、とあらためて誓っている
次第です。私には、あの志摩の海女さんたちと輪島沖に浮かぶ舳倉島の海女さんの言葉の
トーンがなぜか似て聞こえて仕方がないのです。ですので「あのなあ。ほいでなあ~」と
。言葉をポイと投げかけてくるような親しげな顔と声を忘れるわけにはいきません。
私にはいまだに、あの素朴な声という声が深く胸元にグサリと突き刺さってくるのです
。と同時に災害復興と共に能登や東北の地に、あの元気な声が笑顔とともに早く戻ってき
てほしい、と願うのです。
今。私の手元には名古屋在任時にしばしば訪れた大正8年開業のうなぎ・和食の店【や
っこ】さん(名古屋市大須)自らが作成、〝やっこ名物〟で知られる手帳【なごやべん】
があります。郷に入れば郷に従え、とはよく言ったもので、その土地の方言になじめば。
その分、その土地本来の気質にも親しむことが出来るからです。ページを開くと、こんな
言葉が目に飛び込んできました。
「あんまり来てちょうでゃアせんもんだであんじとったぎゃアも」「能登や東日本、熊本
が早くよくなるといいなも」とー
そして、私はここで最後に、両手を何度もこすり合わせながら、かつて何度も何度も聞
いたあの七尾まだらの1節が胸をよぎりました。こんな歌詞です。
♪めでためでたの若松さまよ 枝も栄えて葉も繁る……
そのとおりです。早くかつてのあの元気な能登半島が戻ってくると良いですね。と同時
に「一緒にけっぱろまいな」と東北の人々の声も耳に大きく迫ってきました。能登はやさ
しや土までも。そのやさしさに包まれて。私たちは、かつてその町で生きていたのです
。「ずく出して(松本)」「がんばりや(滋賀)」「せいだして(伊勢志摩)」の懐かし
い声と声が、あちこちから笑顔とともに聴こえてきました。(2025/5/1)