連載 故郷福島の復興に想う 第17回――13年が過ぎて 谷本 多美子(アイキャッチ画像 「西山家の田圃」)

 新しい年度となり、原発事故から13年が過ぎた。能登半島地震からも早5か月。新学期を迎えて、能登地方の一部の地域の子供たちが自分たちの故郷の小学校で入学式を迎えたとニュースで報道されていた。新年早々の大地震や津波のニュースには大変なショックを受けた。1月の北陸地方の寒さは、積雪もあり、南関東に住んでいては想像もできないほど過酷なことだと思う。寒さの中、被災し、仮設住宅や避難先で過ごさなければならない人々の苦労を思うと心が痛む。今もまだ続く困難な生活の中での入学式は、被災地の子供たちばかりでなく大人たちにとっても喜ばしい行事だったと思う。
 
 13年前の東日本大震災、続く東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故のときは、自分の家族のことに必死で、ほんとうは子供たちにとって人生の一大事であることに、心を向ける余裕もなかった。
 13年前、南相馬で被災した筆者の母と妹、避難所を転々としながら新潟まで避難した。三条市が南相馬市の避難者を全面的に受け入れてくれたので、とりあえず胸を撫で下ろしたのだった。南相馬市でのように、一日一人水一本、おにぎり一つの生活からは解放されたが、避難所生活は特に老人には過酷だ。次第に疲弊していく母を、せめて家族単位で過ごせる場所に、と思っていたとき、母が通っていた福島第一聖書バプテスト教会に、教会ぐるみで避難していた奥多摩のキリスト教キャンプ場に合流させてもらえることになった。
 5月のゴールデンウィークに息子の運転で、大渋滞に遭いながら二人を迎えに行って、奥多摩まで送った。「奥多摩福音の家」という施設で、ドイツ人のオッケルト宣教師が責任者だった。
 
 母たちが一か月間避難生活を送っていた新潟県三条市でも、インターネットで福島第一バプテスト教会の窮状を知った長岡の教会の牧師や信徒の方々が、個人的にたびたび避難所に訪ねて助けてくださったり、教会でバザーをして売上金をすべて見舞金としてくださったり、一人のボランテイアの若い女性を通して、特別に大きなサイズでなければ合わない妹に、親族の方の衣類を提供してくださったり、またその親族の方が個人的に食事に招待してくださったり、どれほど多くの方の助けがあったか、知れない。
 ほかの避難者の方々より一足先に三条市をあとにするとき、お世話してくださった方々がみなさん見送りに来てくださった。今でもあのときのことを思うと、目頭が熱くなる。奥多摩に発つ日母は朝早く起きて、避難していた建物の裏側で「三条市のみなさまにお世話になったから」と、一人草むしりをしていた、と一緒に避難してまだ残っていた親戚の者から聞いた。

 奥多摩に避難してからの母は、長旅と避難生活の疲れからたびたび体調を崩し、入退院をくり返すようになったが、教会の牧師はじめ信徒のみなさん、福音の家のみなさんに家族同様に大切にして頂き、もう駄目かもしれない、と思うようなときでも不思議と持ち直していた。奥多摩町も全面的に避難者を受け入れてくれたし、地域の人々や、国の内外からのボランティアなどの方々にも支えられ、一年間を過ごし、その後亡くなるまでの四年間を娘である筆者の近くで生活することができた。 
 こどもたちはどうしていたのか。あるとき、母たちを訪ねた夕刻、横浜の自宅に帰ろうとしていたときに、学校から数人の子供たちが帰って来た。そのうちの高学年の子に、オッケルト宣教師が、「元気?」と声をかけていた。彼女は「たぶんね」と答えていた。あまり元気そうに見えなかったその子の顔は忘れたが、いくらか暗い声は耳に残っている。
 後日、教会が発信していたニュースレターや写真をインターネットで見つけた。一つ一つ読みながら思いを馳せていると、一枚の写真に出会った。3.11から過酷な避難を強いられて、漸く福音の家に辿り着いた子供たち数人が、連れだって登校する後ろ姿だった。太平洋に面した広い浜通り地方で生まれ、のびのびと過ごしていた子供たちが、突然に家を追われ、山間の町奥多摩の小学校に編入しなければならなくなったのだから、心は不安でいっぱいだったことだろう。
 便利で豊かな生活を享受してきたわれわれ大人は、子供たちにどんな申し開きができるだろう。原子力発電所の爆発事故という、世界的にも希な悪質きわまりない事故を経験しながら、教訓にするのではなく、懲りもせずに同じことをくり返しているのだ。
 あのときの子供たちももう社会人か大学生くらいになっている。どんな人生を送っているのか、どうか幸せであってほしいと願わずにはいられない。
 元小学校教諭、現写真家の菊池和子さんの著書『そこに原発があったから―被災者は語る―』(遊行社)の中に、筆者の母校双葉高校に在籍していた、吉野明日香さんが載っている。原発事故により、富岡町に住んでいた彼女は家族とともに、川内村、郡山、千葉、と避難先を転々とするが、山梨の大学に通っていた兄を案じて山梨に移動し、翌4月から山梨の高校2年に編入する。母は勤務先の福島の病院に戻ったがすでに乳癌を発症していた。病にもかかわらず母は家族を案じて毎週山梨に通っていた。翌年四月母の癌が進行したため、二本松市に移り、二本松の高校3年に編入する。その四か月後に母は亡くなる。享年46とのこと。
 高校卒業後明日香さんは声優を目指して郡山市の声優学校に進む。専門学校で学ぶ傍ら、週に一度富岡町生活支援センターの「おだがいさまFM」のパーソナリティーを務めた。2015年4月からは東京の劇団養成所に入り,卒業公演をするも消息がつかめないとのこと。
 ついでに舞台監督のXへの投稿を開いて見た。冒頭から怒りがこみ上げてきたが、我慢して少し読んだ。読むに堪えない内容に、言葉を失った。自分は神であって、何をしても許されるかのような傲慢な言葉がならび、卑猥な表現があり、読み進めることができなくなった。自分の身が汚され、傷つけられていくような激しい痛みと嫌悪感、吹っ切れるまで時間がかかった。こういう人物に被災地を語ってほしくないと強く思う。ちなみに青年団主宰平田オリザ氏は彼の退団を2022年12月16日に発表(オリコンニュース)、同23日所属するゴーチ・ブラザースが彼とのマネジメント契約を解除したと発表した(有限会社 ゴーチ・ブラザースPRODUCING INFORMATION)。
 
 原子力発電所の事故はいったん起こると弱い立場の人々を追いつめてしまう。諸悪の根源のようになってしまう原子力に変るエネルギーはないのか。帰省する旅に増えているのはソーラーパネルだ。かつては黄金の稲穂が波打っていた田圃は、ソーラーパネルで灰色に埋まっていく。
 ソーラーパネルは中国から輸入していると聞く。安い中国製のものを大量に輸入すれば、中国の経済はますます潤う。そのぶん軍事費も増える。国はそこまで考えているのだろうか。それのみならず、耐用年数があり、捨て場もないという。
 国が打ち出した創造的復興は、住民のいなくなった浜通りに、高い防潮堤を作り、核廃棄物を運ぶ広い道路を作り、高齢化して農業ができなくなった田や畑にソーラーパネルを作ることだったのだろうか。
 怖れていることがもう一つある。国は極端な人手不足を補うために、特定技能2号という技能労働者を主にアジア諸国から、今後何万人か家族帯同で受け入れる計画だ。その上永住権も認めるという。アジア諸国もイスラム圏が結構多い。イスラム教は妻を4人まで認めている国もある。その数も含めると、何万人では済まなくなる。これらの人々の受け入れ体制はできているのか
 もう一つの懸念とは、イスラム教は土葬だ。永住した人々も100%の確率でこの地上での生を終える。そこで必要になるのが、彼らを土葬する墓地だ。すでにどこかの県に土葬用の墓地がつくられているらしい。イスラム教徒が増えていけば、それだけ墓地も必要になる。気が付いたら創造的復興計画の中にある故郷に、イスラム教徒の墓地が加わるのではないか。
 この季節、故郷の里山を薄紫の藤の花が覆う。やがて山肌が削られて、灰色に変る日が来ないことを願う。住む家はなくなっても、故郷は壊されたくない大切な場所なのだ。

下浦の生家

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