書評 アジアに生きる〜村上政彦著『結交姉妹』 上山 明博

『結交姉妹』
村上政彦著
2022年8月30日発行
鳥影社
1,600円+税

 文字を用いることを許されなかった女性たちがいたことを、浅学をさらすようだが私はこの本を読んではじめて知った。
 中国湖南省江永県の一部の地域に、女性が文字を用いることを良しとしない特異な風習があった。そのため、その地域に生まれ育った女性たちは、文字(男書)に代わって、彼女たちだけが理解できる秘密の文字「女書女書(にょしょ)」を独自に生み出し、何世代にもわたって密かに受け継いできたという。
 女書が知られるきっかけは、一九五八年に湖南省江永県に住む女性が北京を訪れたことにさかのぼる。彼女が話す言葉は訛りが強く、北京の人びとには理解することができなかった。そのため筆談を試みたが、彼女が書く文字はさらに解読不能で、誰も見たことのないものだった。
 村上政彦著『結交姉妹』は、女書を作品の主要なモチーフにした、十の短編からなる連作小説だ。
 著者はこれまで、日本と台湾の近現代史を背景に、国語教育の様態を追った『「君が代少年」を探して──台湾人と日本語教育』(平凡社新書)や、小説『台湾聖母』(コールサック社)など、日台両国の歷史の狭間に埋もれた人間ドラマを軽やかな澄んだ筆致で描いてきた。
 近著『結交姉妹』は、女書という新たなモチーフに着想を得た著者が、日本と中国の歷史の深層を、覇者の視点ではなく市井に生きた女性の視座から捉え直し、豊かな想像力によって精緻に編んだもうひとつの物語である。
 女書でつづられた詩歌や回顧録は、男尊女卑の社会のなかで親や夫から虐げられ、労役を強いられてきた女性たちの悲しみや苦しみの数少ない発露であり、それは同時に、彼女たちにとって明日を生きるささやかな糧ともなったろう。
 本書の主題である女書のコンテクストには、日清ならびに日中戦争が厳然としてある。事実、日本軍は女書の使用を禁止し、厳しく取り締まった。無論、解読不能な女書が諜報(スパイ)活動や抗日運動に用いられることを恐れてのことである。
 男たちが陰惨な戦争を長年にわたって繰り広げてきた影で、女たちは女書を介して抑圧された心の裡を伝え合い、文化を後世に密かに守り継いできた。本書に収められた短編小説のいたるところに、日本が中国を侵略したことに対する著者の贖罪の思いと、地域の文化を静かに継承してきた女性たちへの畏敬の念が滲み出る。

  女が女だけに分かる文字を持つ。男たちは女書つるぎで国を建て、文字で民を支配する。女たちは文字で繋がって、やがて男たちの国を包んでいく。(大姉口伝)

 著者の村上氏は、連作小説を貫く縦糸に女書を、横糸に盧溝橋事件や南京事件などの歷史の諸相を巧みに織り込みながら、壮大なスケールでアジアの物語を生き生きと描き出すことに成功した。そして、読者である私は、『結交姉妹』を読み進むあいだ、「脱亜」と「興亜」の間で揺れ動いた日本の、近代から現代にいたる波乱の歴史の廻廊を追走した。
 読み終えて、すっかり『結交姉妹』の世界に魅せられた私は、図書館で女書に関する文献を探索し、目当ての図書を借り受けて女書を記した文書をひも解いた。
 すると、砂浜に残された水鳥の足跡のような、軽やかで流麗な無数の象形が目の前に広がった。親や夫に抑圧された暗い歷史があったとは到底思えない、神々しいまでに美しい筆致に胸を打たれた。

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