黒田杏子さんのこと① 森川 雅美

 3月18日突然の訃報が新聞に掲載される。俳人黒田杏子さん急逝の記事。私は2年ほど前に黒田さんを俳句の師と定めていたため、突然の死は大変ショックだった。11日に山梨県で「飯田龍太」に関する講演をし、翌日甲府市内で倒れ入院し、13日には帰らぬ人となった。
 俳句結社「藍生」を主宰し、現在最も活躍している俳人の一人だった。1982(昭和57)年に第1句集『木の椅子』(牧羊社)により現代俳句女流賞および俳人協会新人賞を受賞。その後5冊の句集を刊行し、俳人協会賞、桂信子賞、蛇笏賞、現代俳句大賞など多くの賞を受賞。さらに、エッセーなど優れた散文家でもあり、2002(平成14)年角川選書として刊行され一昨年コールサック社から増補版が出版された『証言・昭和の俳句』は、昭和に活躍した長命の俳人のインタービューを独白に書き換える独自の文体で、昭和の俳句の歴史を当事者の証言として伝える名著として知られる。また数知れない選考も務めるなどパワフルなまさに八面六臂の活躍をされ、現在の俳句のトップランナーだったので、亡くなるにはまだ若いと思ってしまった。しかし、享年は84歳であるうえ以前にも脳の疾患を患っており、俳句を伝えたいという思いがパワフルな活躍となり体への無理が募っていたのだろう。まさに現役往生、最後まで俳人、俳句の伝道者だった。
 私は黒田さんに「あなたは伸びるから俳句をやりなさい。詩人は言葉が分かっているからすぐに伸びる」と誘われ、1年半くらい前から「藍生」にも参加したが、その「藍生」に毎号発表される俳句は、もちろん商業誌に発表される俳句もそうだが、「書けばすべてが俳句になる」という、神業的だった。いま手元にある「藍生」最新号3月1日刊行号の「蜆汁十四句」から引用する。

ダイヤモンド婚に到達蜆汁
選句選評は天職蜆汁
老いて二人記憶の宝庫蜆汁

 なんでもない句だが見事に俳句になっている。もちろん簡単に書いたわけではないがまったく無理なく自然であり、俳句の息遣いを知り尽くした者だけがたどり着く、人を越えた大きなものへの挨拶句に思える。「平易でいて奥が深い、こんな俳句は書けない」と思わざるを得ない。五七五という短い言葉に実に長い時間があり、それを現在の一点に終結させる。黒田さんは「俳句は言い切り」とおしゃられていたが、まさに究極の言い切りであり、そこからは世界は微動だにしない。
 もちろん、初めからこのような俳句を書かれていたわけではなく、言葉と言葉がスパークするような困難な試みと、巡礼などの多くの事物と積極的に出会う足の動きがあり、始めてこのような境地に至れたのだろう。第一句集が40代であるため黒田さんの俳人といての活躍は、40年強と意外に短く、還暦前の前半期といえる代表作をいくつか引用する。

白葱のひかりの棒をいま刻む(『木の椅子』)
能面のくだけて月の港かな(『一木一草』)
稲光一遍上人徒跣(同)

 このような俳句を読むと、いかに困難な言葉の試みを繰り返し、境地に似た俳句の体力を鍛えてきたかよくわかる。1句目は高田正子『黒田杏子の俳句』(深夜叢書社)によると、1977(昭和52)年、37歳の時の作ということであり、若い感性が素直に流れている。「白葱」を「光の棒」と捉え「刻む」感性は並ではなく、後年の境地に至る第一歩ともいえる秀句。後の2句は1995(平成7)年に刊行された句集に収められ、まさに困難な言葉の探求の足跡ともいえる2句。
 2句目はまず「月の港」の修辞がいいが、さらに素晴らしいのは「能面のくだけて」だ。この言葉がどこから出てきたのだろうか。金子兜太は「造形俳句六章」で以下のように述べている。「意識の活動にとって、さらに重要な要素を付け加えておく必要があります。それは想像力(イマジネーション)です。感受と素行だけでは、所詮狭い論理の世界に止まるしかないですが、想像力が加わるとき、それは拡大され深化します」 この兜太の言葉は引用の俳句の言葉の動きを考えるのにぴったりだ。「想像力」が感受や思考を見事に具現し、絶対に動かない世界となる。3句目はより複雑だ。まず、「一遍上人」がいて、普通は思いつかないが「一遍上人」の生涯が端的に浮かぶ「徒跣」という言葉が置かれ、さらに「稲光」という一瞬に全体を光らす言葉。まさにな複数の世界が乱反射するような、「想像力」が紡ぎ出す言葉の積み重ねに裏打ちされた、誰にもたどり着けない揺るがない世界だ。短い中で言葉は何度も切断と接続を繰り返している。
 還暦以降の後期においては、そのような複数の世界を孕む言葉の動きは保たれたまま、現れる言葉そのものは角が取れたように丸くなり、困難な言葉の試みは露出しなくなっている。また句を引用する。

いちじくを割るむらさきの母を割る(『花下草上』)
蕗のたう母が揚げますたすきがけ(『日光月光』)
鮎のぼる川父の川母の川(『銀河山河』)

 黒田さんは晩年に近づくほど家族の句が多くなり、特に母を描いた句に秀作が多いため、後半期の3つの句集から母に関する句を引用した。まったく難解な部分はなく一読さらりと読めるが、よく読むと一筋縄ではいかない複雑な言葉の動きがある。
 1句目は2005(平成17)年に刊行された句集からであり、書かれている内容にどきりと驚くが、先に引用した2句に比べると、言葉の切断は目立たずスムーズだ。「いちじく」から「むらさきの母」のイメージは無理なく移行する。「むらさきの母」というのも「いちじく」からの印象の連鎖だろう。しかし、「想像力」はここでは止まらない、「むらさきの母」という何とも奇妙な造形をする。「むらさき」には内向的だが強いイメージがあり、古くは高官の着物を「紫衣」といったように、高貴という印象もある。「むらさきのは母」は「高貴な母」、「地母神」というイメージにもつながり、「割る」行為は子は親の栄養を食らいながら生きるという、延々と続く親と子の関係まで想起させる。2句目は2010(平成22)年刊行の句集だが、これも二つの異なる時間のイメージが重なる。鮮やかな一人の母の記憶が立ち上がるのと共に、やはりここにもっと長い永遠にも近づく母の時間がある。「が」と書かれることにより、「母」は客体として現れ、中七で「ます」という丁寧な言葉で切ることが「母」の造形をさらに強くし、「たすきがけ」が神聖なもののように輝いて浮かぶ。そのようないくつもの時間を繋ぐのが、「蕗のたう」という女たちが延延と料理してきた春の植物であり、古語の表記も活きている。3句目は2013(平成25)年の句集。「母」、そして「父」も個別であるとともに、神話的な自然と未分化な創造神のような側面を感じさせる。「東日本大震災」の翌年の刊行であり、あるいは祈りも入っているのかもしれない。
 かなり雑でおおざっぱな見方でしかないが、黒田さんの句がいかに何気ない景を描きながらも、原初の神話性と繋がっているのは間違いない。だからこそ、一瞬の現在や記憶の景を描きながらも、永遠に近づく普遍的イメージも想起させる。もちろんこのような言葉は一昼夜にできるものではなく、俳句を一生の仕事と定め絶えず俳句の反射神経を鍛えていたからこそ現前できたのだ。
 これからさらにどのような世界に発展していったのか、そう考えると急逝は残念でならない。

(初出三詩型交流WEBマガジン「詩客」)

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