ふたひらの戀文開く蝶の風
波高し揺れて片寄せ花筏
2018年3月11日の追悼式でタイムカプセルに入れた未来への手紙がポストに届けられた。
そこから5年の月日が流れた葉書は各参列者のもとへ。 そこに綴られたシラコバト団地に住む避難者の皆さんの想いが静かに発酵し、遥かな空へ立ち昇ってゆくようだ。
2023年3月11日東日本大震災追悼式が上尾龍山院にて行われた。
この日は脱原発の会より詩人の森川雅美氏と野武由佳璃の2名で参加した。
手を合わせ心より合掌する。
その日は受付をたのまれた為わたしは募金箱を片手に、詩人の森川雅美氏の詩集“日録”も合わせて販売した。その為
八面六臂の大忙しだった。団地に住むご年配の方々が「こういった記録は是非残した方がいいよ。」とにこやかに語る。さらに本を買ったお釣りまで募金箱にいれてくれた。避難者の方ばかりではなく団地に住む住人の方も協力的だった。
おかげで驚くほど寄付も集まり脱原発の関心度がかなり高いのにも驚いた。
森川雅美氏の詩集はまとめて2冊買うかたもいて、あっという間に完売。
「福島の被災を書いた詩集です。本当にありがとうございました。」
何度も繰り返した。
桜もほころぶ晴天の空が眩しい。
皆さんの顔も明るい。
そして葉書を持参した方が未来への手紙を読んでくれた。
「あの頃は大変だった。」
「福島の住まいや暮らしを取り戻したい。」
「余震がつづいて不安でいっぱいだった。
懐かしい我が家に戻れない哀しみが伝わり、涙をハンカチで抑える姿が見られた。そんな避難者が抱える傷の深さははかり知れないものだ。
式辞は元シラコバト団知事自治会会長宮下東氏より心よりの追悼を頂いた。さらに現職上尾市長畠山稔氏が避難者の皆さんが着のみ着のままで来られた当時を今でも忘れられないと語ったのが印象に残る。避難当時避難者はさいたまアリーナに収容されていた。確かにニュースなどでみたその場面が頭をよぎる。
当時シラコバト団地に収容されたのは61世帯。かなりの人数だった。
現在の団地に住んでいるのは11世帯15人である。
仕事や学校と言った環境の変化があり、追悼式に来ている方全員が避難者でなくなりつつあるのも現実である。
世帯数の変化は就職や結婚が決まったり、老齢のため家族が引き取るなどの事情も考えられる。
良くも悪くもこれは住民が巣立っていった結果である。
しかしすでに震災後12年なら小学生は大学生となる。状況はかなり変わりつつある。
福島の菓子や可愛い紙製の鶴の置物、布製のクリップなど団地の方からたくさんプレゼントをいただきテーブルに飾ってもらった。
14時46分に龍山院の鐘が鳴る。そっと合掌する。 35名前後の参加者だ。
流れゆく日々はとめることができないが、原子力発電所はいつか止めることができると信じたい。
追悼式終了後シラコバト団地のぞうさん公園の桜をみんなで見に行った。
今年も健気に咲いた河津桜はたくさんの哀しみに負けない強い心をもっている。
記者さんからのインタビューに答えるひまわりの会会長橘光顕氏が暗い表情で「いわゆるCORONA禍で先行きの見えない日々を過ごしていることに変わりはありません。辛いです。それでも避難者の方々の暮らしや未来を見つめて行きたい。」
たんたんと語っている姿があった。
そしてフクシマが抱えた重い現実を想った。
現在福島県双葉町の居住困難地区は、まるでゴーストタウンである。新しい駅と庁舎にちらほら人を見かける。
新しく東日本大震災原子力災害伝承館が建築されている。
浪江町には道の駅ができて休日やランチタイムの楽しみが増えた。ただ避難解除した土地は二重の税金がかかる為これも明るい話題ではない。悩みが増えただけだ。
浪江町立請戸小学校は震災遺構となった。見学もできる場所となった。
富岡町にはアーカイブミュージアムができた。最後まで住民を誘導してペシャンコになったパトカーが展示されている。
津波に呑まれた2人の警察官は
2度と帰ることはない。
夜の森の桜は吹雪く。
見るものはいない。
仄暗い光に浮かぶ
オレンジ色のベンチ。
夜の森駅の記憶は
ほのかに光る
銀色の新しい線路。
錆びたままの自動販売機。
もう開く事のない郵便局。
止まったままの公衆電話。
誰も幸せにしない原子力の不思議。
フクシマの米作は始まり、見渡す限り
広がる美しい田園風景
黒い除染袋は何処にいったのだろう。
おやおや居住困難区域に
見覚えがある黒い山を見た。
人の心を置き去りにして、
復興事業は進んでゆく。
土地には故郷を失った人々の涙が
染み込んでいるに違いない。
避難者の心の未来を建築する事業を是非考えてもらいたいと願うばかりだ。
何もできないけれど心より合掌。
眼、鼻、口、失ひて知る桜花