詩集『閃光から明日への想い—―我がヒロシマ年代記 my Hiroshima Chronicle』
天瀬裕康著
2023年8月6日発行
コールサック社
1,600円+税
貴婦人の指青白き敗戦忌 野武由佳璃
廃墟過ぎて蜻蛉の群れを眺めやる 原民喜
原爆ドーム(著者撮影)
昨年天瀬裕康氏を広島まで訪ねる機会があり、初めて原爆ドームを見学した。氏が編集する広島の同人誌”SF詩群”には毎年詩と俳句などを寄稿している。しかし改めて大地の傷の深さに涙した。
1945年(昭和20年)8月6日8時15分の原爆投下の瞬間は鮮烈な苦しみの始まりの”序章”となる。
天瀬氏は医師で高齢の為医院を閉じた後、市内白島のマンションに住んでいる。
訪ねた時は窓を開けて静かに語り出した。
「この街はほぼ壊滅的な被害でした。」
広島城は当時陸軍中国軍司令部として使用されていた。被災の写真が物語る郭内の崩壊した建材が散乱する。
見渡す限りの美しいビルの灯りは街の復興を物語る。
この詩集の感想文を書き始めて、これはなかなか手強いなと感じた。
沢山の死者に向けてのセンチメンタルな感情は捨てて原爆とは何かを突き詰めて考えたい。
爆心地広島の航空写真を広島平和記念資料館でもらった。
資料はテニアンからB29爆撃機が原爆を投下する一年前からはじまる。
1944年(昭和19年)7月すでに日本の委任統治領だったサイパン島は米軍に占領される。
これより無給油で日本本土往復が可能になる。その後日本各地の写真偵察が開始される。
軍事施設の情報が集められ、正確な広島の地図が作成された。 英語で表記されたこの地図は広島が背負った運命を予言している。
原爆投下部隊「第509混成群団」の、技術軍曹ケネス アイドネスがテニアン島北飛行場のエノラゲイ(B29爆撃機)を捉えている。
機名はパイロットの母親の名前にちなむ。次のページには、さらに原爆投下のエノラゲイより撮影されたきのこ雲がうなりをあげて空にもくもくと広がってゆくモノクロームの写真。撮影している人物は報告と原爆の威力を伝える。なんの感情もない一枚の写真である。しかしこの一瞬の原爆投下が引き起こした広島の地獄は想像を超えたものであった。
天瀬氏の詩集はこの日から始まる。
軍都広島が壊滅し、ヒロシマとなる日であったと綴られる。
人間は獲得と喪失を繰り返しながら成長する生き物だ。
家族を、家を失い自らも火傷を抱えて生きること。これが広島の生存者にとっての苦しみの第一歩であり、倒壊した家屋の下敷きとなった人からの声も、水を求める被災者の嘆きもなにもかも耐え難いものである。
中学2年生だった天瀬氏は広島郊外の
8月6日の被災は免れたものの原爆投下の稲妻と地響きを聞く。
“その頃ぼくは”
寺に負傷者を乗せた陸軍小隊のトラックが着く。呉海軍
本堂に重症者を寝かす。
必然母上は看護に天瀬氏は死者を運ぶことになる。
その為二次被爆をした。後年被爆手帳が発行される。凄惨な現場であり、のちにも語られるがものすごい異臭であった。
焼き場は満杯だった。
さらに、8月9日は長崎にも新型爆弾が投下され、日本の終戦8月15日を迎える。
日本が無条件降伏を受け入れたのは9月2日。降伏文書に調印すると、連合国軍が日本国土へ進駐が開始される。
広島駅近辺は比較的被害は少ないが、江波山の気象台も壊れてしまった為台風の被害がだいぶ出た。駅近くの大正橋は9月17日の枕崎台風で流失。
写真偵察用のB29はF-13と呼ばれ、機体底面にガラス窓がある。しかも低空での撮影が可能になったため、さらに広島の市街地の被害が手に取るように分かる様になった。
川が多く流れてのどかな瀬戸の夕凪は一発の原子爆弾で様相を変えた。
舟入、吉島、千田地区は被害は少ない。
原爆投下の目標となった相生橋上流に流木が溜まる。原爆投下の日は爆心地は大量の死者が川に浮かび、それを火かき棒のようなものですくったようだ。
生きているものも全身の火傷、傷ついた子ども達の泣き声が響く。
上空から撮影した米国陸軍航空隊のカメラマンのインタビューが残っている。
-私は被害を撮影しただけで原爆投下にはかかわっていない。私が被害を見た際それは壊滅的なものだった。ここでの数々の死について知ったとき、私はとても悲しくなった。私は広島、長崎への原爆投下を誇りに思わない。それが戦争を終わらせたのだとしても。
何度も、戦争における非人道的な行いを批判する。
なぜ、なぜ戦争が、何度もくりかえす。
廃墟の広島の京橋町、コンクリートだけのこる下村時計店、広島流川教会は空洞化している。
ここは軍服製造工場であり中の人々は一瞬にして焼かれた。
救護所となった本川国民学校で体を横たえる人々。
広島市役所の看板は” HIROSHIMA CITY HALL”が貼り付けられている。
頼りなげな原爆ドームが何もかもなくなった廃墟にたたずむ。爆心地とはそんなものなのか。
その後広島平和記念資料館が建設され、
八丁堀に市内電車を待つ乗客の姿がみられる様になる。
復興とはなんであろう。
米国シアトルに住むフロイド・シュモー氏達が広島の家を建設する。1949年(昭和28年)原爆により家を失った人々のためである。 HOUSES FOR HIROSHIMA ここに新平和と日本語の文字が読める。シュモーハウスは善意に満ち溢れる海外からの支援だった。
天瀬氏宅からの帰りがけ被爆瓦というのを触らせてもらった。この瓦の不思議なのは明らかに炭酸の様に弾ける感触があるのだ。
放射線は目に見えるものではないが何かが弾けているのだ。
天瀬裕康詩集を開くと広島被災の日からまっすぐに見つめた復興の時間がある。
「現在は体調も悪いため脱原発を目指す文学者の会のzoom参加と書き物であればなんとか協力をしていきたい。」
と話してくれた。
核武装の選択肢といった論議は不要だ。悲惨な過去を繰り返さない、多くの死を無駄にしない努力が大切である。平和憲法九条を改正する動きには呆れるばかりであるが、ヒロシマの哀しみは今も忘れてはならないと思う。
日本が被爆国ではありながら被災者の苦しみや、痛みが記憶から薄れていくのはしかたのないことかもしれぬ、
天瀬裕康氏が持っているデータや信念で語られるこれからの未来に、核の文字が消えてゆくことをねがってやまない。
この詩集はでこぼこしていて、ちょっと悲しくて、ヒロシマが経験した痛みと哀しみが広い空にひろがってゆく詩である。
亡くした子供が戻ってくるわけでもなく、焼かれた皮膚が元通りになることはない。たくさんの名前が死者として連なって次の世代に警鐘を鳴らす。
この青白い光はチェレンコフ光であるとかんじる。
ヒロシマ原爆の犠牲者数約14万人
心より合掌します。
秋隣格納されし原子の詩 野武由佳璃