連載 故郷福島の復興に想う 第18回――町が消えた 谷本 多美子(アイキャッチ画像 福島第一ハプテスト協会)

 2年ぶりにお盆に合わせて帰省した。今回も墓参りのついでに親戚や知人を訪ねたり、気になる場所をあちこち見て回ったりしたいと思い、息子にドライバーを引き受けてもらった。高速道路は、都内何か所かで帰省ラッシュに遭ったが、常磐自動車道に入ると茨城を過ぎたあたりから順調に走れるようになった。それでも普段よりは混んでいた。東北自動車道が混んでいると常磐自動車道を利用する車が増えるからでもあった。
 宿泊先のホテルに予定より早く着きそうだったので、双葉町にある母校双葉高校に行って見ることにした。町の様子はすっかり変っていたが、高校は国道から近く、建物が残っていたので、迷わずに到着できた。
 F1核発電所の爆発事故後母校を間近で見るのは初めてだった。現在の双葉高校は筆者が卒業してから新しく建て替えられたので、校舎だけ見ても懐かしいという感情はあまり湧かなかったが、人影もなく、立ち入り禁止のロープが張られている校門の前に立ったときはやはり、母校は終わったのだと、納得せざるを得なかった。
 校舎の西側の自転車置き場には、3・11当時のまま自転車が重なるように置かれてあった。倒れて錆びているものもある。この自転車に乗って登校し、愛車を置きっ放しにして避難した生徒たちのその後が気がかりだった。翌日取りに行こうとしたかもしれないが、F1核発電所の爆発事故で、当たり前のように登校していた母校には近づくこともできなくなったのだ。
 自転車置き場の傍らにはマイクロバスが草むした駐車場に置かれてあった。幾度となく教職員や生徒たちを運んだことだろう。自転車もマイクロバスも被爆したままいつまで放置されているのだろう。後世のために残しておくべきではないか。
 校庭の周りには木が生い茂って、まるで人が立ち入るのを拒んでいるかのようだった。校舎の南側に移動して、校庭よりも高さのある道路に立つと、広い校庭が木々の隙間から一望できた。その広さに息子は驚きの声を上げていた。郊外とはいえ、都会で生まれ育った息子には信じられないほどの広さだったらしい。
 その昔、野球部を始めとして運動部は同じ校庭で練習をしていた。野球部は三度の甲子園出場を果たしている。筆者は屋外での部活動には属していなかったが、毎年春と冬に行われる校内マラソン大会では、出発もゴールもこの校庭だった。毎回落伍者ではあったが、苦い思い出も今では懐かしい。90年の間、数え切れないほどの若人たちが学び巣立った母校が、廃校同然になってしまった現実をすんなり受け入れられないまま、母校を後にした。
 双葉高校から約1キロメートル北東の下条というところに父の生家があった。筆者が高校を卒業してからはすぐ近くに立派な町役場が建ち、道路も整備され、人々の暮らしも少しずつ豊かになっている様子が感じられていた。何よりも大きな変化は町に原子力発電所ができたことだった。
 原子力発電所の建設により、それまで農業だけでは生活が厳しかった人々も、働く場ができて、
子どもの教育もここ数十年の間に大学まで進学させる家庭が増えている、と母校の同窓会から送られてくる新聞などでその変化を感じていた。車も一人一台が当たり前だと聞いていた。便利な生活に慣れきっていたときに、爆発事故は起きた。
 人々が少しずつ手に入れてきた豊かさや便利さは一瞬にして失われてしまった。目に見えるものばかりでなく、大切な人々、家族や家庭、コミュニティー、今では失われたものの大きさは計り知れない。
 双葉高校から父の実家の下条に向かうまで、町の様子が変わり果ててしまって、昔の記憶に頼って目的地に到着するのは至難の業だった。下条辺りも住宅のほとんどが解体されていて、目印になる建物も店も今は何もなく、記憶に頼るだけでは見つからず諦めて次の場所に向かった。

大熊町の現状

 次に向かったのは、原発に一番近い教会、として国内ではもちろんキリスト教徒の多い欧米のクリスチャンたちの間では有名になっていた、福島第一聖書バプテスト教会だった。皮肉にも福島第一がつく。帰省するたびに母と一緒に礼拝に通ったプロテスタントの教会だった。
 戦後間もなくアメリカ人の若い宣教師夫妻が、町とは名ばかり、周囲は田圃や畑ばかり、広い野原にぽつんと小さな一軒家が建ったようなところでキリスト教の布教を始めた教会だった。地元民が話すのは方言、若い白人の宣教師夫妻にとって、どれほどの苦労と忍耐の繰り返しだったことだろうか。苦労がたたり、妻は病死して日本の土となった。その後を継いだ日本人牧師一家も極貧を経験したと聞く。その後暫く無牧師になっていた教会に、信徒たちに請われて赴任したのは、神学校を卒業したばかりの若い佐藤彰牧師夫妻だった。
 若い佐藤彰牧師の教会に、母は娘である筆者と行くのが楽しみだった。重篤な病を通して信者になった母は、八〇歳くらいまではバイクで通っていたのだが、自宅から十キロ以上離れた教会に毎週通うのは困難になり、娘の帰省を楽しみに待ち望むようになっていた。
 母との思い出に加えて、筆者も教会の信者の方々と親しくなり、教会主催の海外旅行に参加させてもらったりもした。原発事故により母にとっては唯一のよりどころとなっていたF1バプテスト教会は、即座に避難しなければならないような危険な建物となり、長い間立ち入ることもできなくなっていった。追い立てられるように避難をした母も、五年後には、もう一度下浦(家があった集落)に帰りたい、いわきの教会に行きたい(F1バプテスト教会がいわきに移ったことを聞いていた)と言いつつ、一度も果たせないうちに世を去った。
 母の思いも背負って、常磐線の大野駅近くにあった教会の住所をカーナビに入れて車を走らせた。が、目的地に到着しました、というカーナビの音声の通りに止まると、見たこともない風景が広がっていた。二年くらい前月1回、F1バプテスト教会で礼拝が始まったとニュースで見ていたので、すぐにわかると思ったのだが、まるで見知らぬ土地に来たかのように、見知った建物も、商店が何軒かあった小さな町も、何もなくなっていた。二度三と大野駅を起点にカーナビに導かれて教会に向かうのだが、毎回同じところで止まった。そのうちに息子は、母の認知機能を疑いし、
「何度も来たことがあるならわかるだろう!」と強い口調で言うのだった。
 何度目かに、これが最後と思ってもう一度駅の方に戻り、出直すと、止まったのはやはり同じ場所だった。息子に声を荒げて言われる前に車から降りて辺りを見回した。町が壊れているので方角がわからなかったが、何気なく向けた視線の先に、形がまだ残っている建物があった。さらに目をこらすと、屋根の上に十字架が見えた。あった!と思わず声を上げてしまった。何度も同じ所を通って同じ場所で止まっていたのだが、見慣れた教会の裏側に止まっていたので、気づけなかった。
 漸く見つけたものの、教会の周囲は工事中で、通行禁止になっている。残念ではあったが、日もだいぶ傾いてきたので、その日は諦めて翌日改めて出直すことにした。

 翌朝早くホテルを出発して、F1バプテスト教会へと向かった。今度は大野駅のかなり手前の国道六号線から左折して教会をめざした。あたり一面工事中ではあったが、勘に頼って行くと教会の近くまで辿り着くことができた。苦労の末に漸く探し当てたのに、教会の周囲は鉄パイプやロープで遮られていて、敷地内には入れなかった。ここまで来て、と思うと諦めきれなかった。よく見ると、鉄パイプとロープの間隔が比較的空いていて、体を折り曲げるとくぐり抜けることはできそうだった。意を決してくぐり抜けた。
 懐かしい教会の庭に立ち、感無量だった。スマホを取り出して、礼拝堂、多目的ホール、納骨堂、など写した。いろいろ思い出しながら、建物の一つ一つをゆっくり見回していたとき、近くにパトカーが止まり、若い警察官が近づいてきた。
 悪いことをしているつもりはなかったが、かなり嫌な気分で、もう一度ロープをくぐって警察官の近くまで行った。案の定職務質問された。住所、氏名、職業、何の目的かなど聞かれ、写真も今写したものだけでなく、スマホに保存されている多くを調べられた。もう終わりかと思ったら、「暑いから車の中に入ってもいいですよ」と言われた。「まだ何かあるのですか」と不満げにいうと、彼は頷いた。
 しぶしぶ助手席に座ると警察官が、無人の建物に入り込んでの窃盗、写真を撮ってSNSなどにUPして悪用、などなど犯罪の数々があるから、と説明を長々とし、運転席にいる息子にまで、任意ですが、と住所氏名を聞こうとした。いいかげんうんざりしていた息子は、即断っただけでなく、「警察官の不祥事だって最近立て続けに報道されているでしょう。おたくがそうだって言うわけではないけれど」と感情的になって返していた。
「今回は指導ということにします」息子の言葉から悪しき雰囲気を感じ取ってか、警察官が譲歩ともとれることを言った。
 見慣れた町がすっかり消えてしまい、漸く探し当てた教会の庭でしばし佇んでいたときに、なんとも後味の悪い出来事に遭遇してしまった。ショッキングなことはまだ続くのだった。

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