三月十二日、昨日の出来事は嘘のように空は晴れて気持ちのいい朝だった。早朝友人宅で目を覚ましたところに、私が所属している日本バプテスト連盟青葉キリスト教会の小田牧師から電話をいただく。私の故郷の母や妹を案じての電話だった。八十人もいる教会員の中の一人にすぎない者の出身地のことまで把握していてくださったことに、驚きと感謝の念がふつふつと湧く。
小田牧師ご夫妻も高層住宅の上階にお住まいで、昨夜はきっと車中泊をなさったのではないかと思われた。昨夜、妹から「多美ちゃんの家を使わせてもらっていい?」と電話があり、短いやり取りのあとは何も連絡はなかった。
妹が姉の私を多美ちゃんと呼んだのは、この大震災から1年以内の期間だけだった。理由は複雑なのでここでは省略することにする。多美ちゃんの家、とは実家の母が祖父から相続した家屋敷の片隅に、私の亡き夫が小さな家を建ててくれた家のことだ。母に借用書を書いて借りた土地に、私たち親子が帰省した折に気兼ねなく寝泊りできるようにと、生前夫が地元の工務店に依頼して建てたのだった。平屋建ての小さな家で、私や息子が帰省した時には、母も妹も、私たちと一緒に食卓を囲み、談笑のときをもったりしていた。
昨日、母と妹は津波から逃れて、しばらく裏山で待機していたのだが、日も暮れて寒さも増してきて、外では過ごせなくなったと思われる。後に聞くところによると、燐家の高齢のご夫妻と娘さんも一緒だったらしい。
小田牧師に昨日の妹からのメールのことを告げると、大変心配してくださる。
友人宅で手厚いもてなしを受け、温かい朝ごはんをゆっくり頂き、動き出した東海道線、小田急線、田園都市線を乗り継いで、2時間ほどかかって横浜の自宅に帰った。
乗り継いだ電車はすべて各駅停車だった。1980年代の運行状況だったらしいが、異常な空気感があった。しかしその中にも不思議な安堵感もあった。
集合住宅の3階にある自宅は、建物全体もわが家も無事だったが、ピアノの上に飾っておいた写真の類はすべて床に落下して、フレームのガラスが割れて床に散乱していた。横浜の北部は、平塚よりもより北になるので、揺れもひどかったようだ。
割れたり、散らかったりしたものが、それまで経験したこともないほど大量にあったので、片付ける気にもなれず、しばらく放置しておいた。
丸一日、妹からは連絡がなかった。妹が、多美ちゃんの家、と呼んでいた小さな家で、きっと眠りこけているにちがいない、とこのときは思っていた。テレビの電源を入れると東北の太平洋沿岸の大惨事が繰り返し流れていて、見続けることができなくて切ってしまった。
千葉に住む友人が電話で、「あなたの田舎、福島じゃなかった?」と聞いてきた。そうだと答えると、なんだか大変なことになってるから、行かないようにと繰り返し釘を刺された。
☆午後3時36分、東京電力福島第一原子力発電所水素爆発
私はこの時点でも、翌日になっても、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故のことを知らなかった。無関心からではなかった。テレビも新聞もまともに見る気になれなかった。
ともかく、一日、友人や知人からの電話の対応をしたり、身の回りの整理をしたり、で終わった。私が知らないでいるあいだに、故郷の人々は地獄を味わっていたのだが。
前日の3月11日、同じ集落の同級生の実家では、兄の葬儀が行われていたことを後に知った。地震、津波、翌日の原発事故、と続きいったいそのお宅はどうなったのか、隣家の人も、葬儀はやったらしい、くらいしか知らなかった。
三月一三日、穏やかな日曜日の朝を迎えた。毎朝届く朝日新聞朝刊一面に、東京電力福島第一原子力発電所水素爆発、の記事が載るが、この記事は何日か後に開いてみることになる。
朝、歩いて五分ほどのところにある教会の礼拝に行く。説教の前に小田牧師が、私の家族のこと、私が知り得た情報のことを、教会に集っていた教会員の前で話してくださる。
礼拝が終わると、何人もの方がかわるがわる声をかけてくださる。母や妹のこと、施設に入所したばかりの父のこと、などで心が塞がっていて、感傷に浸る余裕もなかったのだが、人々の優しさに触れて、涙が出そうになった。
夕方になって漸く妹からメールが入る。何か所かの避難所を転々として、 “ゆめはっと”にたどり着いた、実家は潰れているかもしれない、と書いてあった。ゆめはっとは南相馬市の北部、原町区にある文化会館だ。慌てて避難したので携帯電話の充電器を忘れて充電できないから、連絡は暫く短いメールのみ、ということになった。
のちに妹から聞いたところによると、3月11日、太平洋岸から2キロほど陸側にある故郷の集落にも津波が押し寄せ、瓦礫とともに生家の縁の下で止まったという。生家は道路側から三軒目で一番奥になる。そのおかげで被害は少なかった。生家は、少しは改築したものの、土台は古く縁側が高いことが幸いした。しかし、一軒残らず流されてしまった2㎞先の浦尻、井田川の瓦礫は一部ではあっても我が生家に流れ着いて津波は止まった。生家が縁の下なら隣はもっと酷かったと思う。一番道路側の家は鴨居まで水が来て、一人で留守番をしていた親戚の70代の女性は、長押に掴まって助かったのだと、暫くして仮設住宅に訪ねたときに話してくれた。
3月11日、震度6強の地震がきて、慌てて外に飛び出した妹の耳に、「津波だ!」と叫ぶ隣家の80歳過ぎの女性の声が届いた。おそらく、だが、妹はパニック状態になって、85歳の杖歩行の母の手を抜けるほど強く引いて、裏山の途中までよじ登ったに違いない。母は暫く、「かづ子(私の妹)に手を引っ張られて、抜けてしまった」と言い続けていたから、抜けはしないものの、かなり強く引っ張られて、痛みが後々まで残っていたようだった。
生家の裏山は、私が子供時代は冬になると家族総出で雑木を刈り取り、一年分の燃料にしたものだが、農村にもプロパンガスが普及してからは、柴山は繁茂するに任せて、裏山でさえ簡単に入り込めなくなっていた。 途中までにせよ、高齢者二人が這い上がるにはまさに命がけに違いなかったと思う。その日は、初めに、「津波だ!」と叫んだ隣の老夫婦と、妹より一歳年下の女性と5人で津波の去るのを待ったらしい。
何日か後、妹と話せるようになって徐々に3月11日の様子が分かってきた。津波がおさまったころ、「多美ちゃんの家を使わせてもらっていい?」と妹が電話をかけてきて、いったんは私の家に入ったものの、周囲の恐ろしい光景に不安を覚え、消防に電話をする。
「すぐに迎えに行きますから、待っててくださいね」と消防署員と思われる人が親身に受け答えしてくれたという。それでも不安で、消防が来る前に、その時の行政区長や、近所のご夫妻の車で、山間部の道路を通って隣町の学校に駆け込む。国道6号線は道路が冠水したり、分断されたりして通行できる状態ではなかった。
命からがらたどり着いた学校にはすでに避難者が溢れていて、入室を断られ、やむを得ず他の二つの学校の門をくぐるもどちらもやはり断られてしまう。四か所目にして受け入れてくれたのがゆめはっとだった。