連載 故郷福島の復興に想う第3回 原発に一番近い教会 谷本 多美子(アイキャッチ画像 福島第一聖書バプテスト教会 佐藤将司氏撮影)

 2023年の幕が開いた。新年を迎えるたびに、原発事故から今年の3月でまもなく○○年、と数える癖がついた。今年の3月11日で丸12年になる。年数は経つが記憶は薄れることがない。福島第一核発電所の爆発事故が起きて10か月後の2012年の元旦を、筆者はアフリカのルワンダで迎えた。避難先で危篤状態にあった母を残しての旅立ちだった。なぜそこまでして、と問われても理由はない。一瞬にして起こった地震、津波、原発事故、明日の命の保証など何もないのだと、身をもって知り、突き動かされるように決心したルワンダ行きだった。
 1994年4月、ルワンダでは内乱で3か月の間に80万人もの少数派ツチ族が多数派フツ族によって虐殺されるというジェノサイド(集団虐殺)が起こった。悲惨きわまりない大虐殺から10年以上が経ち、加害者が刑務所から出所して、被害者家族と同じ集落で暮らさなければならない現実が待っていた。その被害者家族と加害者の和解のために働いていた日本人のS夫妻を訪ね、ジェノサイドについて学び、どのようにして和解へと結びつくのか知りたいという思いで、10人くらいのメンバーの中の一人に加えてもらったのだった。
 現地に着き、被害者の証言を聞いたり、記念館になっている教会を訪れ血のついたままになっている大量の衣類や、地下に納められている夥しい傷のついた頭蓋骨などを見たりしているうちに、次第に感覚が麻痺して目を逸らすことなく見てしまっていた。今あのときの様子を思い出すと息が止まりそうになる。あのときも、ジェノサイドはいつでもどこでも突然に起こり得る、と学んだ。故郷福島の原発事故のように、ロシアのウクライナ侵攻のように。
 去年、双葉町に建てられた原子力伝承館に行った。大変立派な建物で、設備も素晴らしいが、過去に行った、ルワンダや、アウシュビッツ強制収容所博物館、韓国の歴史記念館、イスラエルのホロコースト記念館を訪れたときのような臨場感はなかった。核の脅威があまり伝わってこなかったのだ。

 2011年3月11日(金)、筆者は出先の平塚で故郷の妹から一通のメールを受け取った。「津波がきた山に逃げた死ぬかと思った」些細なことでも大袈裟に騒ぐ妹からの句読点も無い短いメールを見ても、何を大袈裟な、位にしか思わなかったが、前々日の水曜日、故郷南相馬市一帯に強い地震があったことが一瞬頭をよぎった。
 妹からの連絡はそれっきり途絶えた。その日東海道線も止まってしまって横浜の自宅に帰れなくなり、行動を共にしていた大磯の友人宅に泊めてもらった。平塚と大磯、わずか一駅の区間、車なら15分程度の距離を2時間かかって辿り着いた彼女の家で、テレビから繰り返し流れる映像を見て、はじめて妹のメールがの内容が大事だったことを知った。
 翌日の昼過ぎ、動き出した電車に乗って、横浜の自宅に戻った。妹から連絡があったのは二日後の3月13日の夕方だった。いくつかの避難所を転々として、原町区のゆめはっとという文化会館に落ち着いたということだった。その連絡を受けている最中に、建物内にアナウンスが流れ、母と妹は用意された大型のバスに乗り込んで、南相馬市の人々と新潟県三条市に向かった。バス10台を連ねて、10時間以上かかっての避難だった。
 後に母と妹も加わることになるのだが、大熊町夫沢の福島第一核発電所から5㎞の地点に、皮肉にも同じ第一がつくプロテスタントの教会がある。一度は、あった、と過去形になるところだったが、2022年4月、教会の周辺が除染され、月に一回だけではあるが、再び礼拝ができるようになった。その教会、福島第一聖書バプテスト教会は筆者の生家から11㎞、核発電所とほぼ同じ距離にある。クリスチャン人口1%未満の日本に、核発電所が建設されるほどの過疎地である人口一万人余りの大熊町に、教会員が100名をはるかに越えるプロテスタントの教会があること自体、日本では驚愕に値することだ。奇跡を見ようと国内外の教会から見学に来るほどだ。
 福島第一聖書バプテスト教会に、今から40年近く前に、一人の若い牧師が着任した。佐藤彰牧師その人だ。キリスト教の信徒をまだ耶蘇と呼ぶ人もいる封建的な風習が残っている田舎町の、信者数も少ない教会で、佐藤牧師は、その土地に根ざして、一人一人と膝つき合わせるようにして伝道していったことだろう。まさに満身創痍と言っても過言ではないことを、筆者も身近なところで牧師や宣教師の働方を見て知っているだけに、確信をもって証言できる。大病を患った筆者の母、人生に躓いてばかりいた妹、最も扱いにくい類いの二人もあるとき佐藤牧師に出会い信仰を持つに至った。わが家族のように佐藤牧師の教会のドアを叩き、救われた信者は数知れない。佐藤牧師が葬儀を執り行った信徒たちの中には、財産を教会に捧げ、教会のために、と遺言していく人々もいる。それらの人々の遺志は、四つの教会堂となり信者たちの祈りの場となっている。
 毎週日曜日に礼拝を行っている大熊町の教会を100年もつ教会に、と新たに会堂を建て直したのは震災の2年前だった。2年後に、東日本大震災と福島第一核発電所の爆発事故が起きた。佐藤牧師の四つの教会のうち、一つは津波に遭い、他は閉鎖(立ち入り禁止)、教会員のほとんどは家を失い、全国に散ってしまう。行き場のない60名の信徒たちは、佐藤牧師、副牧師(佐藤将司副牧師だが彰牧師と血縁関係はない)と一緒になって700キロを逃げ歩く。逃げる途中で4名の教会員が亡くなる。60名も一緒に受け入れてくれるところはやはり同じキリスト教会しかない。しかも出来るだけ遠くでなければならない。必然的に会津や山形の豪雪地帯に向かうことになる。道路は大渋滞、ガソリンもない中、何台かの車に分乗し、缶詰を食べながら逃げ惑ったという。佐藤牧師は3日間で体重が9キロ減り、2時間先のことは考えられなかったと後に語っている。佐藤牧師の教会の人々だけでなく、多くの被災者も同じようにか、それ以上に過酷な避難を経験したことだろう。
 最終的に佐藤牧師たちを1年間受け入れてくれたのは、奥多摩にあるドイツ人オッケルト宣教師が責任者を勤めるキリスト教の宿泊施設だった。筆者の母と妹も、1か月後の5月に新潟県三条市を後にして、教会のみなさんと合流させて貰うことになった。
 オッケルト宣教師はテレビ局の取材に答えている。「本国から帰国するように要請があったが、帰るという選択肢はなかった」と。1年後、佐藤牧師はじめ信徒たちがいわき市に旅立つ日、オッケルト宣教師も教会の人々も泣きながら別れを惜しんでいるところを、テレビ番組で見た筆者も、彼らと一緒になって嗚咽しそうになった。

 現在福島第一聖書バプテスト教会はいわき市に、故郷大熊町に向かって翼を広げるようにして新しく建っている。全国に散ってしまった信徒たちが、いつでも帰って来れるようにと設計されたのだそうだ。佐藤牧師は震災1か月後に大熊町の教会に帰った時のことをカナダのバンクーバーの教会で話している。「(前略)新しい教会に牛が18頭いました。(中略)牛が私たちを見つめていました。何しに帰って来たんだ。人間は何度でもこの星を滅ぼそうとする。今福島は有名です。チェルノブイリのように見られます。だから神様のメッセージだと思ったんです。世界中の人々よ、快適な生活を求めて不幸になっているんじゃないか。自分の願いを達成するために何でもやっていいっていう話しはないよ。急ブレーキはどうした? 急ハンドルはどうした? 原点に帰りなさい(後略)」
 教会での牧師のメッセージなので聖書の話しに戻るが、佐藤牧師はキリスト教の牧師でありながら、神社庁や仏教の寺院や、国会議員たちに招かれ、彼らの前でも同様の話しをしている。
 十分過ぎるほど痛みを経験した福島第一聖書バプテスト教会の人々、彼らも故郷大熊を失いながら、前を向いて歩いている。12年前に訪れたルワンダで、あるツチの一人の女性Fさんが話してくれた。「目の前で夫と二人の息子を殺され、妊娠中の隣人とライ麦畑に逃げたところを掴まえられ、レイプされた。妊娠中の女性は子どもを失った」Fさんは言った。「自分のために赦しなさいと言われました(S夫妻が関わるキリスト教団体の一人からだと筆者は理解した)」
 憎しみを持ち続けて生き続けるのはさらに辛いことだ。このあと、出所してきた加害者にFさんはお金を渡すから赦してほしいと言われたが、お金は受け取らなかったそうだ。S夫妻の働きが確実に実を結びつつあることを知った一瞬だった。福島第一バプテスト教会の人々の、ルワンダの人々の、彼らの信仰心や前向きな生き方に救われる思いだが、これほど愚かで残酷なことをするのも人間なのだとまたも思わないわけにはいかない。それでもこの愚かな人間たちのために命をかける人々もまた少数いることによって、どうにか人類の滅亡が免れているのかもしれない。

 1月18日、東電旧経営陣に対する控訴審判決が東京高裁であり、高裁は三人の被告を二審も無罪とした、と19日の朝日新聞朝刊一面に載っていた。無罪になった三人の被告は胸を撫で下ろしているだろうか。勝俣、武黒、武藤という経営陣が君臨しているときに過酷で悲惨な事故は起こった。三人の名前も、核爆発事故もやがて人々の記憶から消えていくかもしれないが、事故の事実は消えることはない。

福島第一聖書バプテスト教会 佐藤将司氏撮影

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