ひんやりとした旧式の聴診器が肌にあたるたび火傷した皮膚が震える。1945年8月9日。被災者の身体に残された傷は記憶する。
長崎に原爆が落とされた日のことを皆は忘れない。さらに被爆することの意味をこの時理解できた人は何人いたであろうか。生きとし生けるものは皆焼かれ苦しみうめく人々の姿がそこにあった。
目に見えぬ傷を負った大地は無言のままたたずむ。爆心地1.4キロ地点の三菱兵器工場から奇跡的にわずかな傷で這い出しだした三つ編みの14歳の少女。それが林京子氏だった。この記録をクールな目線で綴った小説が”祭りの場”である。このタイトルは燔祭生贄の動物を焼いて神に捧げる儀式を思わせる。
2022年8月6日、神奈川近代文学館にて作家林京子氏と文芸評論家黒古一夫氏の対談DVD作品上映会が行われた。
脱原発を目指す文学者の会より詩人の森川雅美氏と野武由佳璃の二人で参加した。この映像は2000年秋に原爆文学展に際して制作されたものである。
照りつける夏の日差しを抜けてヒンヤリした2階ホールにたどり着く。
150名入る会場だが、椅子席はかなり空いており参加者は35名前後。やはりコロナ禍のため人数は少ない。
林京子氏は1930年8月長崎に生まれる。商社勤務の父親とともに家族で移住した。1945年3月まで上海市密勒路の居留地に暮らす。2歳で第一次上海事変。
7歳で第二次上海事変を経験。上海は次第に戦争色が濃厚となってゆく。1941年太平洋戦争開戦。
上海の気候は日本の様に繊細なところがないと語る。ゆえに長崎に戻った頃は春夏秋冬のある繊細な日本的気候にまず一番に驚いたそうだ。大陸的なおおらかな暮らしと、黄色く濁った黄浦江。モードンとは中国式便器の意。外灘、虹口などときおり中国語の単語が飛び出す。引揚者ならではの言葉だ。1945年2月14歳の時父を除く一家で帰国。長崎高等女学校3年に編入する。
その年の8月9日三菱兵器大橋工場で勤労動員中被爆する。
「そのころわたしは痩せっぽちで力もなく、紙屑を集めて捨てる仕事を任されました。」
その当時の髪は三つ編みで女学生らしい彼女の姿が浮かぶ。
また長崎原爆で特記すべきは、広島型とは違う爆弾だったこと。これはリトルボーイと反対にファットマンと呼ばれる。さらに威力があるものであった。
これは米国側の実験的な試みでもあった。飛行機はこの日曇っている第一目標小倉を離れ、浦上を目指す飛行機、視界が開け雲のまにまに長崎の街は広がった。11時2分松山町490メートル上空で白い落下傘に吊るした原爆は炸裂した。
さらに林氏の優れた目線はきちんと裏打ちのあるデータの元に小説が描かれている点も感心する。
「飛行機じゃなかとか。」 工場内で急降下する爆音を聞いた。さらにエンジンを止めて原爆を落とした後再び上昇し逃げる爆音。
当日彼らはB29「ボックスカー」の爆音はきいたが、原爆炸裂音をほとんど聞いてないという。ほんの一瞬である。この後 工場は倒壊し火の手があがる。自分の命は自分で救わねばならないと彼女は回想する。そして友達のブラウスの火を消す。表にでるとフットボールのように目や鼻と口がない顔の人がいる。大変なことが起きていた。
原爆の火の玉は直径70メートル、およそ1000坪の広さだ。
彼女はなるべく無傷の大人二人を先ず最初に探した。なかなかしっかりものである。途中畑のカボチャを食べる。夏の草生きれの味がした。「太陽のおっちゃるう。」と誰かが叫ぶ。太陽はあたかもゴッホの太陽のようにギラギラとしていた。松山町の裏山の段々畑に出るとすっかり街がなくなっていた。二人のおばさん達もびっくりして泣いていた。
それはまるでクワでならされたような平坦な曠野になっていたからだ。
「いたかばい。ああいたかばい。」 被災者達はうめく。靴にアラキというなまえがあり、小指だけが動いている大学生。歩く道々、垂れ下がった皮膚を抱え、全身火ぶくれの重傷者をみる。その後林京子氏は第一号被爆者となる。3キロメートル以内で直接原子爆弾を受けた被爆者であるからだ。何度となく彼女はデータが大事と語る。この物語は原爆症の不安と闘いながらさらに亡くなった友を追悼する深い祈りがある。長崎は人口24万人のうち7万4000人死亡。その後の被爆による健康被害を抱えながら生きる人々を想う。
小説「祭りの場」は群像新人賞および芥川賞を1975年(昭和50年)に受賞。
この小説のラストに”かくて破壊は終わった”と綴られる。現代は果たして破壊が終わったのであろうか。世界にはいまだ原発問題も含め核は廃絶されていない現実がある。では私たちはどうすべきであろうか。それはより多くの人にこの悲惨な事実を後世に伝えること。そして少しでも未来を変えるために原爆の恐ろしさを語り継ぐ必要性があると思う。