今年の野原を歩く十年の 時の狭間だからまだ肉の残る 語りきれない消えた日の 時に夢で会うことはありますが もはや帰ることはないので 繰り返しを綴る時間のための 流れた手のひらの市街地 に生していくものたちを繋ぎ すでに多くの新しい人と 出会った私の場所だと 呟く誰かの風と共に鼓膜 を揺らす爛れた内の壁に解れ 反射する記憶のなかの いまだに笑っているのに 不明のまま何年になるのか 一面に広がる水をさらに静かな 閉ざしえない唇から溢れ 荒野の果ての晴天にまで灯す あなたの声を忘れましたが どうか許してくださいと 孤独を結わく人差指の 先に燃す忘れられた人の記憶の さざ波の繰り返しへ流れ もう誰にも会うことのない 遥かに遠い場所なので 散り散りになる声たちを注ぎ ゆっくり地に満ちいく ぼろぼろの背中の平野に途絶え もうこれ以上の悲しみを 地に深深と注ぎたくはない 鼓動の外れの段丘にまで まさぐる体温の繋げる微かな 今年の野原に爪弾くまだ 閉ざされたまま誰かの 帰りをずっと待ち続ける 肉の残る足首の起伏から戻す 漂える不明の頭を語り なお置き去りになる街道までの やっと違う人の温もりを感じ 移る気持ちになったのに 首筋の振り向けぬほど 弱まり横たわる欠乏へなお長い 絡まりになるのだと囁く もう私たちを灯さずに 心底静かな休みを迎えたい 深い陥没に綴られる前に潰え いつまでも座る人のない 古い椅子の足元にまで伸びた まだ記憶のこびり付いた 救えなかった多くの悲鳴に 眩暈を重ねなおも続ける 愚行の続きへと傾くまま包む 鳴り続ける肋骨の綻びに ならば終わりなく続く 手足の執拗な鈍痛の消えず なおも削られる十年の鼓動の 欠落する田畑まで留まる 静かになる切断面を覆う柔い 輪廻するということを 信じたいと思う時のまだある 指紋のなお癒されぬ土地 の淵をなぞりざらつく真昼へ 抜けていく悲しみの響き から指の先だけでも出会い また同じ団欒に戻れるの だと陰る肺の内側にも咲いた 今年の野原へ落下する さらに多くの嘴の騒めきに淀む 明日にきっと戻る人の 歩いた痕の野原を摘みながら 風化し続ける川縁の脹脛 いまだ小刻みに伝わる痙攣の ゆくりなく現れる古い 誰かの痩せ細った後姿へ 人差指の先の先まで記憶する 血液の至るところに滞りを孕み 肉の残る眼下の奥の明滅 する長く足跡の消えた街路へ 佇む魂の手のひらに届ける 光の粒になお浸される 呼ばれる掠れた声の反射 するいくつかの記憶の内側が 春雨や話せぬ口の繁茂せり
3・11、原発事故からの十年は何であったのかと問うと、東京に住む人たちの多くにとって、やはり忘却か忘却を望む時間であったろう。とはいえ、まだ2000人を超える行方不明者が存在し、帰宅できない土地も多くあるのは事実だ。オリンピックや経済復興のスローガンのもと、この国は過去の反省もせずに狂騒し、原発再稼働や新設まで推進した。
いまコロナウィルスの出現により、また多くの死者があらわれ、それに重なり3・11や原発事故の死者たちも、潜めていた声をあげはじめた。そこには歴史に繋がる多くの死者たちが蠢き、人が死者を忘却し反省することなく、置き去りにしようとするならば、その声は何度も戻ってくる。
私はただその声を聞き取り書き綴るだけである。
今年の桜も2011年や昨年のように、また赤身を帯ているだろう。