2011年の震災から10年を区切りに、われら「脱原発社会をめざす文学者の会」は、昨2021年新たに文学賞を設けることにしました。10年間には真摯に災害と向き合った文学作品が数多存在し、その結果、フィクションとノンフィクションの部門で各3作品に対して顕彰しました。
今回はこの1年間(2020年12月~2021年11月)に出版された作品だけを対象とするために、果たして「文学大賞」に推せる作品があるのか些かの不安があったことは否めませんでした。
杞憂でした。フィクション部門にもノンフィクション部門にも実に重厚なそして文学的に高い水準の作品がありました。
以下の作品を第2回「文学大賞」に決定しました。
◎フィクション部門
若松丈太郎さんの詩集『夷俘の叛逆』(コールサック社)
◎ノンフィクション部門
樋口健二さんの聞書き『フクシマ原発棄民 歴史の証人―終わりなき原発事故』(八月書館)
川村湊さん、佐藤洋二郎さんの講評をご覧ください。
我々は今後とも、原発に関して正面から向き合った文学作品を読みたいと思っています。そしてそんな作品を心から応援してゆく所存です。
高橋 至
(昔から東北の地には) 川村 湊
昔から
東北の地には
鬼とエミシが
棲んでいた。
西南の 都びとは
そんな彼らを 封じ込めるために
柵を
関を
砦を 築いた。
征夷大将軍の率いるネブタ(姿は 勇ましいが、中味は空っぽだ)の軍隊は
叛乱する賊将(阿弖流為や悪路王、あるいは将門)
を謀って 捕囚とし 都へ連れ込み
清水寺の 舞台の下で 首を刎ねた。
夥しい水が流れた。
核発電の事故が起こり
東北は無住 禁足の地となった。
仏だった詩人が鬼となり、荒ぶるエミシとなった。詩集『夷俘の叛逆』からは
鬼の声 エミシの乱声が聞こえる。
血を流すな、
血を洗い流すための 水を流すな、
雨を降らすな、
雪も降らすな、
雨も 雪も 舞い上がる瘴気も降らすな。
詩人の最後の声が届いた。
いくつもの世界があって
こちらにはこんなとがあって
あちらではあんなことがあって
これからなにがあるの?
これからなにをするの?
(キエフでは 絶望的な抵抗が まだ続けられているーー2022/3/3)
鐘声のように響いてほしい作品 佐藤 洋二郎
日本史は国民が喜んだり、嬉しかったことはほとんど書き残さない。またその時代に誰でも知っていることや、当たり前だと思っていることも書き残さない。その多くは異常なことや異質なこと、前年度よりも変化したことを書き残す。大化の改新、鎌倉幕府や江戸幕府の成立、あるいは明治維新、大東亜戦争というふうにである。その中に「フクシマ」原発事故も、この日本という国があるかぎり記録されていく。またそうしなければいけないし、甚大な被害と悲惨さは日本だけのことではなく、人類がともに学ぶべき歴史としなければならない。
受賞作品の『フクシマ原発葉民 歴史の証人』は、事故の十五人の証言者を元にして綴られたものだが、それが事故を重層的に捉え、改めて彼らの静かな慟哭が届いてくる。わたしたちは親を選んで生まれてくるわけではない。まして国家や土地を望んで生まれてくるわけではない。生まれた土地で家族に育まれて心身ともに成長していく。それが故郷ということになるが、「フクシマ」の人々はその故郷喪失という怒りや嘆きがある。
本書はそれらの感情が詰まっている作品である。家族が離れ離れになる。土地も失った。放射能で人体に影響が出た。さまざまな証言が時間の堆積の中で、決して埋没させないという憤怒がある。読み進んでいくと心に痛みを抱く書物であるが、人間は今も、自らがコントロールできない「危険な太陽」を造り続けている。やがては第二、第三の「フクシマ」が出てくる可能性は高いが、本書はその警鐘本とも言える。「フクシマ」原発の書物や被害を受けた人々の証言本は多くあるが、写真や資料も掲載され、大惨事の悲惨さが一段と浮き彫りになっている。
本書が「脱原発社会をめざす文学者の会」の文学賞に推挙することには異存がなく、逆にこの作品が時間の経過とともに底光りし、そこから鐘声のように響いてほしいと願っている。それがなによりも脱原発への警鐘だと思うからである。
―ロシアが欧州最大のサポリージャ原発を攻撃した日に―