前回は上関における原発推進とそれに対する反対運動の始まりに関し、1983~86年につき述べ、反対運動の主体になる祝島の自然の概略も描きましたが、それでは今回は主として平成時代になってからの、祝島の原発反対運動の軌跡を眺めてみましょう。
それは一口に言うと、苦しい互角の戦いでした。1989(平成1)年1月早々、反対派は原発建設予定地に九千平方メートルの土地を取得し、2月25日には祝島漁協が総会を開き、「原発反対、環境調査や説明会も一切拒否する」ことを決議しています。
これに対し中電は8月18日、予定地の沖合に漁業権を持つ8漁協で構成される共同漁業権管理委員会に、立地環境調査の同意を正式に申し入れました。8漁協とは、上関町の上関・室津・四代・祝島の4漁協、及び、周辺にある平生・田布施・光・牛島の4漁協を加えた合計での8漁協です。12月1日現在、上関町の人口は5979人(そのうち有権者数は4933人)で、中電に対し翌年の町議選に介入しないよう申し入れますが、中電は回答を拒否しました。
1990(平成2)年2月4日、原発問題が出てから2回目の上関町議選挙が行われ、原発反対派議員が7人から5人に減少しました。4月26日、祝島漁協で臨時総会が開かれ、「立地環境調査」については圧倒的多数で否決されます。祝島漁協の組合員らは5月30日、中電を訪れて「立地環境調査を拒否し、調査については一切論議しない」と通告しました。
ちょっと余談ですが6月3日には、大阪府富田林市立第一中学校の生徒が広島への修学旅行のあと祝島を訪れ、大歓迎を受けています。7月7日には平生漁協が、14日には牛島漁協が「立地環境調査」への同意を決定し、これで関係8漁協のうち、賛成7、反対1となりました。
1991年1月9日、中電幹部は年頭の記者会見において、「祝島漁協の説得に全力を挙げる」と述べ、原発推進派は3月2日に「上関町町づくり総決起大会」を開いた。これに対し反対派は同月9日、「原発のないふるさとづくり」を開催し、31日には「原発いらん!反原発運動柳井→上関ウォーク」を行なっている。これは山口県内の各地と広島・北九州から50人が参加し、柳井市から上関町まで約20キロメートルを歩いたのでした。しかし4月21日の上関町町長選挙では、片山秀行(推進派)2379票、小柳昭(反対派)2042票で、またしても反対派の負けとなったのです。その後6月19日の町議会で、中電が町長選挙前に、立地環境調査対象地区内の地権者約50人に対し「管理協力料」の名目で1,500万円を支払っていたことが明らかになりましたが、その後はうやむやになっております。
1992年1月末の祝島の人口は950人でしたが、2月14日、祝島の反原発団体「愛郷一心会」は総会を開き、会の名称を「上関原発を建てさせない祝島島民の会」に改めました。3月には栽培漁業センターを作ろうとする光・熊毛地区栽培漁業協会の会合で、管理運営基金7億円を「負担してくれる企業はないか」との意見が出され、5月には不足分を中電からの協力金で賄おうとする案に傾きましたが、祝島漁協が反対しました。祝島漁協は6月に全員集会を開き、中電の協力金は受け入れないことを決定しています。8月16日から20日まで、千年の歴史を持ち県の無形文化財になっている祝島の「上舞」が、12年ぶりに復活しました。祝島で毎週月曜日に行われている反原発島内デモは、11月16日に10年目で470回を超えましたが、 ここでチョッと、中電の足跡も調べておきましょう。
中電が立地環境調査を開始したのは1994(平成6)年12月で、96年の2月まで続け、その年の11月には、中電が上関町に原発立地の申し入れをします。1998年9月、中電が原発予定地の用地買収を始め、1999年4月には環境リポートを提出しました。この調査書は杜撰であり、山口県・山口県技術審査会・環境庁・通産省などから追加調査を要請されています。
2000(平成12)年の4月26日、共同漁業権管理委員会は関係8漁協と中電の間で漁業補償契約を締結しましたが、祝島漁協は提訴しています。5月15日には中電が、総額125億5千万円の漁業補償金の半額を支払いますが、祝島漁協は受け取りを拒否し供託しました。同年6月13日には、祝島漁協が漁業補償契約を巡って、補償契約を結んだ中電と共同漁業権管理委員会、四代漁協、上関漁協を相手取って提訴しました。師走になると神社地買い取りと拒否の問題が起こってきました。
2001年1月29日には、中電が国に提出した環境影響評価準備書の追加調査中間報告を、県が了承。4月23日には、経済産業省から突然、山口県知事に上関原発についての意見照会がありました。二井知事は6項目21分野の条件付きで同意しています。5月16日、総合資源エネルギー調査会の電源開発分科会で、上関原発が了承され、6月11日の官報に掲載されました。
同年6月15日、中電が2年2ヵ月前に注意を受けた環境リポートを再提出し、7月6日に経済産業省の環境顧問審査会は、原子力部会で、中電の上関原子力発電所建設計画の環境影響評価書を承認しております。
2003(平成15)年は、奇妙な事件が続いた年です。
春の町長選挙は原発推進派の候補が三人出て乱立状態となり、片山秀行前町長の裁定で3人は辞退し、元町議会副議長の加納(簾香に一本化し4月27日の選挙に臨み、原発反対派の候補・山戸貞夫祝島漁協長を破って当選しました。女性首長の誕生は山口県では最初でしたが、この時、黒い金が流れたものと思われます。
ちなみに投票率は91.67%で異様な高さを示していますが、推進派の中から中電の買収政策が暴露され、神崎後援会長が逮捕されました。これを受けて加納町長は、8月の上関町議会で佐々木議長に辞職届を提出し、9月末告示、10月にやり直し町長選となったのです。これまで買収を見逃してきた警察がいきなり逮捕に進み、しかも金の出どころである中電は何のお咎めもないのですから怪事件と言わざるを得ません。
(2024年9月7日)
電力会社による買収は原発小説にはよく出てくるが、お寺や神社の聖職者が反原発派であることも稀ではない。上関原発でも平成12年に顔を出した神社地買い取りが進む。
平成十五年三月、神社本庁は(四代(正八幡宮の林春彦宮司を解任し、翌平成十六年十月には新任の宮成宮司と役員会が、四代正八幡宮の神社地を中電に売却した。しかも十九年三月には、林春彦が突然死しているのだ。ここらはむしろ創作の素材にしたほうが適しているかもしれないが、こうした怪事件が続くなか、中電の計画は進んで行く。
平成17(2005)年4月13日、中電が原子炉設置許可申請に必要な詳細調査で建設予定地の陸上でのボーリング調査開始。同年6月24日、中電が海上でのボーリング調査開始。反対派住民の海上抗議活動のため、当初は2の予定だったが大幅に遅れることになる。