連載 原発の蔭と影第15回 明るさと熱と動力源(中国電力序章) 天瀬 裕康

 まず歳旦のご挨拶から申し上げるところですが、今年は元日の午後4時10分頃から石川県の能登半島の先端にある輪島市の東北東30キロ、深さは暫定値で16キロあたりを震源とし、震度7で規模はマグニチュード7・6と推定される大型地震が発生し、現在も死者が増えつつありますので、お祝いの言葉は遠慮させて頂きます。
 気象庁が「令和6年能登半島地震」と命名したこの地震は、北陸電力志賀原発(現在停止中)のある羽咋はくい 郡志賀町でも死者を出しております。この地震に関しては本会の<会員の原稿>2022年8月に「北陸地方の電力事情」と題して掲載して頂いた拙文の中で、「活断層の問題も充分解決できておりません」と書いていますが、今回の地震は、複数の活断層が連動した結果のようで、改めてその怖さを再確認したところです。
 さらに2日の午後5時47分頃、羽田空港C滑走路で札幌発羽田行き日航516便エアバスA350が着陸した際、海上保安庁の航空機ボンバルディアDHC8-300と衝突し炎上しました。日航機の乗客・乗員379人は脱出し無事でしたが、海上保安庁機の男性乗員5名が死亡しました。この海保機は能登半島地震に対応し、新潟航空基地へ支援物質を届ける途中だったそうですから、胸が痛みますし、人間は機械を使いこなせないのではないかという疑念も湧きます。
 ともあれ能登半島地震の関連死者、ウクライナやガザでの死者の、ご冥福を祈らせて頂いてから、これまで私がこの欄に書いてきた枝葉末節の事柄から離れた文明論的な切込みのため、照明・燃料・動力などの歴史にも目を通しておきたいと思います。(合掌)

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 能登半島地震に関し、新聞やテレビで被災地の方の生活を垣間見ておりますと、地震が起こってすぐ夕暮れ、停電の起こった場所では、不安が大きかったはずです。避難しなければならなかった人たちにとっては、寒さの防御と暖をとるのは切実な問題だったでしょう。
 つまり文化的な生活の基には、明るさと温度の問題があるようです。少し風呂敷を拡げ、巨視的な視野でヒトの進化の途上を眺めますと、焚火たきびが果たした役目はとても大きかったと思われます。先史時代・石器時代における「炎」の文化ですが、それは照明・暖房・料理のための熱源にもなりました。
 その点では文化生活への第一歩でしたが、手軽に使えないという点では落第でしょう。中世の闇を潜り抜け、ルネッサンスになっても大きな改良は見られませんでした。17世紀以前の大きな発明といえば、ローソクやオイルランプくらいでしょうか。
 ところが18世紀には事情が変わり、1792年、スコットランドのW・マードックが石炭から出るガスによる照明の実験に成功し、1797年にはイングランド北西部のマンチェスターでガス灯が設置されました。産業革命後の工場では稼働率を上げるのに夜間照明への要求が高まり、ガス灯が使われましたが明るさは不足しています。そこで19世紀後半以降はガスではなく電気を利用したアーク灯や白熱電球などの電灯が開発されました。こうしてガス灯は、電灯にその座を奪われていくのですが、日本での状況は如何だったでしょうか。

 日本でも18世紀頃には越後地方で、陰火(いんか)として天然ガスが知られていました。盛岡藩の医師がコールタールから発生させたガスを灯火として燃やしたことが記されています。
 薩摩藩主の島津斉彬は石灯篭にガスの管を繋ぎ、照明としてのガスを燃焼させました。
 日本で最初に西洋式ガス灯が使われたのは1871(明治4)年、大阪市の造幣局の周辺で、機械の燃料として使っていたガスを流用し、工場内および付近の街路にガス灯が灯りました。翌年、横浜瓦斯会社が作られ、1873年には銀座にもガス灯が建設されました。石川県生まれの泉鏡花作『婦系図おんなけいず』を原作にした映画の主題歌「婦系図のうた」の中に<赤い瓦斯燈 境内を/出れば 本郷切り通し>という処がありますが、ガス灯の光には色がついているので明るくありません。この歌が流行った1942(昭和17)年といえば私は11歳でしたが、ガス灯には抒情性のような何かを感じたものでした。

 ガスのライバルとなった電気は、1870年にベルギーのグラムが実用的な発電機を開発し、翌年には東京―横浜間で電信が始まり、72年には新橋―横浜間の鉄道が開通しております。76年にはベル(米)が磁石式の電話機を発明。78年3月25日には虎ノ門の工部大学校(東大工学部の前身の一つ)で初めてアーク灯が点灯し、「電気記念日」の基となります。79年10月21日にはエジソン(米)が白熱電灯を実用化し、「あかりの日」の由来となります。
 1882年には銀座にアーク灯が灯され、84年にニコラ・テスラ(米)の提唱した交流方式が電気事業の主力になっていきます。86年には初めての電気事業者として東京電灯会社(東京電力の前身)が開業。同年、大阪の紡績会社では初めて自家発電で電灯が灯りました。翌87年頃から名古屋電灯などの新会社が、神戸、京都、大阪など続々と設立され、東京電灯は第二電灯局を作り初の火力発電所を建設し、家庭配電を開始します。89年には大阪電灯がアメリカから交流発電機を輸入、交流配電を開始しました。
 1890年には東京電灯が浅草凌雲閣でエレベーターを動かし、初めて動力用電力を供給。翌91年には帝国電燈(日本最初の電力会社、現存せず)が開業しています。92年には京都市で日本初の水力発電所が作られ、95年に東京電灯が浅草発電所の操業に際し使用したドイツAEG製発電機が50ヘルツだったので、東日本標準が50ヘルツになりました。97年には大阪電灯がアメリカGE製発電機を増設しますが、これが60ヘルツだったので西日本は60ヘルツになりました。ヘルツ数が関係する電気製品もありますので、いささか残念です。
 大正時代以降・広島関係は次回からにさせて頂きます。

稲光こだわる群れの周波数
人間をケモノと分けし焚火かな
ガス灯の主力なりせば無原発?

(2024.1.10)

 こうしたガス灯に関し広島地方では1909(明治42)年10月、広島市材木町に資本金150万円をもって広島瓦斯㈱が設立されています。その後、尾道ガス㈱や呉ガス㈱などを合併して大きくなり、1917(大正6)年には資本金300万円の広島電気軌道㈱と合併、資本金を600万円に増資し、商号を広島瓦斯電軌㈱に変更しましたが、1942(昭和17)年には電鉄部門を広島電鉄㈱として分離し、商号を広島瓦斯㈱としております。
 戦後の1949年には広島証券取引所に上場しましたが、電気軌道の方はどうなったでしょうか。少し重複しますが広電の歴史として眺めてみましょう。
 明治の末期、広島城の堀を埋め立て、そこへ路面電車を敷設しようという機運が高まり、いくつかの会社が名乗りを上げますが、すでに電力業界で有力な起業者となっていた東京の松永安左エ門・福沢桃介のコンビが広島電気鉄道㈱を設立し、計画を進めていました。そこへ一年遅れの1910(明治10)年、大阪の大林吉五郎も広島電気軌道㈱を設立して二社の競合となりますが、松永が大林に譲って1920年、広島電気軌道㈱に軌道敷設の特許が下りました。
 用地買収で一波乱あったものの、1912(大正元)年には広島駅~相生橋間など三ヵ所が開業され、千田町の現在の車庫に発電所を、現在の商工会議所の横に変電所を設け、1915年には宇品線が運行を始めます。

 しかし現実には白熱ガス灯が作られ、約5倍の明るさになりますが、それでも煙の臭いや火災の危険性などから伝統に取って代わられ、観光などのレトロ趣味を満足させるものになっていきました。この手のものは全国至る所にありますが、たとえば広島市では、元安川左岸緑地帯から平和大通りの緑地帯へかけての「灯和とわみち」の所にありますし、呉市では市の中央部に近い堺川に架かる五月橋にあります。

 能登地方に大津波警報が出ました。これは誤報でしたが、輪島港では1.5メートル以上の津波が観測され、珠洲すず市などの沿岸部では住宅に被害が出ています。
 羽咋郡志賀町といえば北陸電力の志賀原発(現在停止中)の所在地で、輪島では最大4メートルの地表の隆起が認められています。また北海道から九州にかけ広い範囲で揺れが観測され、中国地方では鳥取市が震度4、岡山市南区や島根県出雲市で震度3、広島市南区や福山市では震度2でした。津波は、鳥取県北西部の境港市で60センチのものが見られ、テレビでちょっと垣間見たところでは、九州の玄海原発のあたりまで小さな津波があった由です。
 ちなみに気象庁が0・2以上1メートル以下の津波を認めた時に津波注意報を、1メートル超3メートル以下では津波警報を、3メートル超の場合は大津波警報を出すようになっていますが、2日の午前には津波注意報が全て解除されました。

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