『あたし帰った かえったわよ: 一匹文士小説集』
伊神権太著
2023年10月15日発行
人間社
1,800円+税
ブンヤ稼業に身を置いて、愛妻と共に渡世してきた一匹文士・伊神権太の最新創作集だ。5作の短篇からなるが、どれも主人公は作者と思しき男とその妻。若い頃の妻は、腰まである長い髪、愛らしい八重歯、ミニスカートが似合うチャーミングな女性として描かれる。
冒頭に置かれた「どさ回り」では、作者の満は、ブンヤ生活を終えて、故郷の愛知県江南市に家を持つ。居所を得ても、彼の思いは厳しい記者時代のただなかへ帰ってゆく。
作者の分身・満は志摩半島の通信部で働く。一緒に暮らし始めたばかりの妻が、写真の現像を手伝うのに、裸体同然の水着姿で暗室に入る。
満が取材するのは、殺し、サンズイ(汚職)、事故など、社会の暗部をえぐる出来事が多い。作者は、妻と二人で乗り越えてきた地方記者の生活の記録を後世に残したいと筆を揮う。それは日本の現代史そのものでもある。
2作目の「パリよ、ビンラディン、あなたは今どこに」では、2006年、時間の余裕ができた夫婦が、パリに住む長男夫婦を訪ね、帰国してからは能登へ旅をする。その最中、作者の脳裏からは、ウサマ・ビンラディンの姿が離れない。できるものなら本人に会いたい。これはブンヤの業なのか。
3作目の「ぽとぽとはらはら」。まず、表題に惹かれた。
「人生とは。だれだって【ぽとぽとはらはら】である。嬉しい時、悲しい時にポトポトと流れる涙の滴に身を任せ、毎日をハラハラドキドキしながら、それでも少しでも幸せになれたらイイナと。そう思い、皆けなげに生きていくのである」。
自注によると、表題は、「著者の妻、俳人・伊神舞子がつけました」とある。
物語は、満が思いもかけず、少年時代に親しくしていた少女・美智と再会し、少しばかり妻に後ろめたい気持ちでいたら、彼女たちが友人だったという話。
物語は簡素だが、途中にブンヤの眼の効いたコロナ禍の社会の景色が挟まれ、時代の空気がアクチュアルに表現されている。
4作目の「赤い空、わかれ」から、作者の妻恋の様相が色濃くなる。この作品では、男と女という呼称で、作者と妻の来し方が語られる。男はブンヤ。妻は、短歌と俳句をよくし、作者の小説への厳しい批評家でもあった。その彼女が子宮頸がんで亡くなった。大半が、二人が互いに呼び合う相聞の形式になっている。
最後の「あたし帰った かえったわよ」は、大仰な言い方をすれば、作者の絶唱だ。電話が鳴れば、妻からか、と思い、チュッ、チュッと啼く小鳥を見れば、妻の転生かと思う。そして、妻は遂に盆に帰って来た。作者は亡き妻と思う存分に語り合う。これまでのこと、これからのこと。そして、大きな愛情を込めた感謝を捧げる。この作品は、小説でなければ表現しえなかった世界である。