日録  十年目の3・11に

今年の野原を歩く十年の
時の狭間だからまだ肉の残る
語りきれない消えた日の
時に夢で会うことはありますが
もはや帰ることはないので
繰り返しを綴る時間のための
流れた手のひらの市街地
に生していくものたちを繋ぎ
すでに多くの新しい人と
出会った私の場所だと
呟く誰かの風と共に鼓膜
を揺らす爛れた内の壁に解れ
反射する記憶のなかの
いまだに笑っているのに
不明のまま何年になるのか
一面に広がる水をさらに静かな
閉ざしえない唇から溢れ
荒野の果ての晴天にまで灯す
あなたの声を忘れましたが
どうか許してくださいと
孤独を結わく人差指の
先に燃す忘れられた人の記憶の
さざ波の繰り返しへ流れ
もう誰にも会うことのない
遥かに遠い場所なので
散り散りになる声たちを注ぎ
ゆっくり地に満ちいく
ぼろぼろの背中の平野に途絶え
もうこれ以上の悲しみを
地に深深と注ぎたくはない
鼓動の外れの段丘にまで
まさぐる体温の繋げる微かな
今年の野原に爪弾くまだ
閉ざされたまま誰かの
帰りをずっと待ち続ける
肉の残る足首の起伏から戻す
漂える不明の頭を語り
なお置き去りになる街道までの
やっと違う人の温もりを感じ
移る気持ちになったのに
首筋の振り向けぬほど
弱まり横たわる欠乏へなお長い
絡まりになるのだと囁く
もう私たちを灯さずに
心底静かな休みを迎えたい
深い陥没に綴られる前に潰え
いつまでも座る人のない
古い椅子の足元にまで伸びた
まだ記憶のこびり付いた
救えなかった多くの悲鳴に
眩暈を重ねなおも続ける
愚行の続きへと傾くまま包む
鳴り続ける肋骨の綻びに
ならば終わりなく続く
手足の執拗な鈍痛の消えず
なおも削られる十年の鼓動の
欠落する田畑まで留まる
静かになる切断面を覆う柔い
輪廻するということを
信じたいと思う時のまだある
指紋のなお癒されぬ土地
の淵をなぞりざらつく真昼へ
抜けていく悲しみの響き
から指の先だけでも出会い
また同じ団欒に戻れるの
だと陰る肺の内側にも咲いた
今年の野原へ落下する
さらに多くの嘴の騒めきに淀む
明日にきっと戻る人の
歩いた痕の野原を摘みながら
風化し続ける川縁の脹脛
いまだ小刻みに伝わる痙攣の
ゆくりなく現れる古い
誰かの痩せ細った後姿へ
人差指の先の先まで記憶する
血液の至るところに滞りを孕み
肉の残る眼下の奥の明滅
する長く足跡の消えた街路へ
佇む魂の手のひらに届ける
光の粒になお浸される
呼ばれる掠れた声の反射
するいくつかの記憶の内側が
 
春雨や話せぬ口の繁茂せり

 3・11、原発事故からの十年は何であったのかと問うと、東京に住む人たちの多くにとって、やはり忘却か忘却を望む時間であったろう。とはいえ、まだ2000人を超える行方不明者が存在し、帰宅できない土地も多くあるのは事実だ。オリンピックや経済復興のスローガンのもと、この国は過去の反省もせずに狂騒し、原発再稼働や新設まで推進した。
 いまコロナウィルスの出現により、また多くの死者があらわれ、それに重なり3・11や原発事故の死者たちも、潜めていた声をあげはじめた。そこには歴史に繋がる多くの死者たちが蠢き、人が死者を忘却し反省することなく、置き去りにしようとするならば、その声は何度も戻ってくる。
 私はただその声を聞き取り書き綴るだけである。
 今年の桜も2011年や昨年のように、また赤身を帯ているだろう。

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