少し前から、もうすぐ東日本大震災から十年とか、復興とかという言葉を頻繁に耳にするようになった。確かに、原発事故被災地から離れたところでは、徐々に復興は進んでいるが、福島第一原子力発電所から十、五キロの地点にあるわが故郷、集落の大部分が荒れ地となり、帰還した四家族も高齢者ばかり、いずれ消滅の危機にさらされている状況に、復興という二文字は見えてこない。
今世界中がコロナウィルスの脅威に晒されている。現在全世界のコロナウィルスによる死亡は約二三〇万人、感染者は一億人以上、と新聞に出ていた。知人の医師によると実際の感染者はこの十倍くらいいると思う、とのこと。ワクチンの接種が始まっても完全に感染者がいなくなるまでには三年くらいかかるだろう、という専門家もいる。
コロナの場合はあと三年くらいで一応おさまる見通しのようだが、原発事故はどうか。事故から間もなく十年になろうとしているが、廃炉作業も、汚染物、汚染水の処理も見通しが立っていない。未だ立ち入ることさえできない町村がある。一部は「特定復興再生拠点区域」として除染され、地震で崩れたり、避難中に野生動物に入り込まれたり、傷んでしまったりした住居や店舗の解体が進んでいるらしいが、周囲はまだ手つかずの、危険な点のような面積しかないところに、人間を住まわせて大丈夫なのだろうか。安全と危険の明確な境界線があるなら目に見えるようにして見せてほしいものだ。
早々と難指示が解除になった地域でも元の家に戻れた人は少ない。それでも望郷の念は断ち切れず、知る限りの知人や友人たちはできるだけ故郷の近くにと、新たな住居を探して移り住んでいる。しかしそこはいかに同じ県内ではあっても見知らぬ土地、コミュニティーが完全に破壊されてしまっては、高齢の単身者は知人もなく、孤独な生活を強いられていると聞く。
復興庁二〇二一年一月二九日のデータによると、福島県から県外への避難者数は約二万九〇〇〇人いる。多くは避難先に定着し、新たな生活を始めていると信じたいが、事故当時幼かった子どもたちも思春期を迎え、微妙な立場に置かれているのではないかと、ある自主避難をしている家族の、一人の高校生の息子が話すのを聞いて心を痛めている。
「学校に行っても、友達には福島出身ということは言わないようにしている」
二月初めの朝、新聞で福島第一原発事故後の原発産業をめぐる主な動きについて、の記事を読んで、改めて驚いた。
二〇一四年 四月 台湾が日立製作所、東芝、三菱重工業がかかわる建設計画を凍結
一六年 九月 日立、東芝、三菱が傘下の核燃料製造会社の統合を検討していることが表面化
十一月 ベトナムが、日本企業の受注が決まっていた計画を撤回
十一月 リトアニアが日立の建設計画を凍結
一七年 三月 東芝傘下の米原発メーカー、ウェスチングハウスが経営破綻 その後東芝は海外の原発新設から撤退
一八年 十二月 三菱重工業がトルコでの建設を実質断念
一九年 八月 東京電力、中部電力、日立、東芝が原発の共同事業化の検討で基本合意
二〇年 四月 日本製鋼所が室蘭製作所を分社化
九月 日立が原発建設から運営まで担う英国での計画から撤退発表
(二〇二一年二月七日、朝日朝刊)
この狭い日本に五十四基もの原発を設置しておきながら、海外にまで輸出を目論んでいたことは知らないわけではなかったが、改めて活字を見るとさらに恐怖を覚える。
昨年、東北電力が女川原発を再稼働することに、村井嘉浩知事が同意した(二〇二〇年十一月)と、朝日新聞の記事にあった(二〇二〇年十二月三日)。女川原発は太平洋岸にあり、福島第一原発からそう遠くはない。もしものことがあれば日本の太平洋沿岸は全滅ではないか。漁業関係者はどうなるのだろう。単純な私の頭にすぐに浮かんだことだった。
政治家も、電力会社、東芝、日立、三菱など組織のトップたちも、最高学府で学び、最高の学歴を身につけた人々だと思う。それらの人々が、核と命は共存できると思っているのだろうか。
玉川大学八号館の玄関に『神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり』と初代学長小原國芳氏揮毫の碑が置かれているのを目にしたことがある。主に理工系の者に、彼らが陥り易い唯物的な考え方にならないようにとの願いがこめられている、ということだ。ガリレオの言葉をアレンジしたらしいが、なぜだか心に残っている。
知恵のある悪魔には誰しもなり得る、と知ってもいる。矛盾するがそれでも絶望はしていない。十年前の大震災、原発事故によって、私の家族も被災者となり、多くのものを失ったが、それ以上に得たものも多い。具体的な物資の支援はもちろん、新潟、奥多摩、横浜と、避難先を移動していた家族を、母の最後の地となった横浜まで、新潟や福島から何人もの人々が訪ねてくださった。また私の友人、知人たちも多くの犠牲を払って支援してくださった。人々の善意にただ甘えるしか術をしらないが、母亡き後も、善意の人々との交流は続いている。
知恵のある悪魔には誰しもなり得る、と知ってもいる。矛盾するがそれでも絶望はしていない。十年前の大震災、原発事故によって、私の家族も被災者となり、多くのものを失ったが、それ以上に得たものも多い。具体的な物資の支援はもちろん、新潟、奥多摩、横浜と、避難先を移動していた家族を、母の最後の地となった横浜まで、新潟や福島から何人もの人々が訪ねてくださった。また私の友人、知人たちも多くの犠牲を払って支援してくださった。人々の善意にただ甘えるしか術をしらないが、母亡き後も、善意の人々との交流は続いている。
世の中、私の周りにいるような良心を持ち合わせているわずかな人々によって、どうにか保たれているのだと思う。原発事故の問題は一〇〇年経っても解決しないかもしれない。誰もその責任を問われないまま、時間は過ぎていきそうな気がする。それでも、良心を持ち続けようと努力している人々がいる限り、まだ大丈夫だと思いたい。原発に対して無知だった者の責任として、ここで恨み節を唸っているだけでは、子や孫たちに申しわけない。 「人は、人生がいかに悲惨であったとしても、その存在は肯定されるべきである」。ある神学者の言葉を自分のものとして、コロナに打たれない限り、残された日々を生きていきたい。