第8回 待つということ 夢と希望を求めて

 新しい年が明けました。ことしは五黄の寅年で36年に一度の金運奇跡の年とかで、あやかりたい気持ちは同じかと思います。でも金運よりも、私たちにとって大切なことがあります。年の初めに当たって、それは努力をして【待つ】ということではないでしょうか。新しい夢と希望、期待に満ちた時代を共に待ってみようではありませんか。
 待つと言う言葉でまず浮かぶのは、マスクです。一体いつになれば、以前のようにマスクのいらない普通の社会が戻ってくるのでしょう。今はスーパーであろうが、どこに出かけてもマスク、マスクです。私は週に一度、社交ダンスのレッスンに励んでいますが白手袋はむろん、マスクまたはフェイスシールドなしでのレッスンなど考えられません。このほか、長年培ってきたハーモニカや横笛をふき、時には♩梅は咲いたか―といった端唄も唄います。でもマスクは取らざるをえず人前を避け、わが家で独り演じます。マスクなしの方が情緒もあって良いですが。宵待草でもあるまいに。マスクなし社会はもう来ないのでしょうか。

 待つことは、人によってさまざまかと思います。昨年はコロナ禍のなか、国連提唱のSDGs(エス・ディー・ジーズ)という言葉が世界中に広がり、取り組みが始まった年でもありました。各国が一丸となっての▽気候変動対策はじめ▽人や国の不平等をなくす、など17の開発目標が今後どう人類社会で実践されていくか。これも世界で生きる私たち誰もが自分のこととしてとらえ、待つことに違いありません。
 ほかにもあります。コロナ禍が吹き荒れ、新たな敵として変異ウイルス・オミクロン株が出現し第6波の感染拡大が心配されるなか、大切な家族を失った人々が、この先どう生きていったらよいのか。立ち直りが待たれます。さらに2011年3月11日に起きた東日本大震災。昨年は、その爪痕を残そうと福島県浪江町請戸小学校が福島県内では初の震災遺構に認定され、東北の三陸沿岸の道路では昨年暮れ(12月18日)に仙台市から青森県八戸市まで359㌔が全線開通、震災前より3時間20分短縮され5時間で結ばれ希望の道が実現しもしました。

 そして。待つといえば、大震災であれコロナ禍であれ。肉親に先だれた人々は一体、いつになれば〝悲しみの海〟からの脱却ができるのか。昨年暮れ12月5日付の中日新聞(東京新聞)のサンデー版大図解で【どう死別に向き合う? 悲嘆(GRIEFグリーフ)を考える】を読みましたが「待てど 暮らせど」といったところが偽りのない心境ではないでしょうか。とはいえ、待つうちに悲しみは遠ざかっていく。今よりはよい時代がやってくる。そんな気もするのです。
 というわけで、私はこの世に生きる全ての人々にとって、希望が近づく時代がきたらイイナ、と思います。昔、冬山遭難の取材で「遭難待ちの記者たち」と騒がれたことがあります。こんな待つ、では困ります。(2022/1/1)

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