これまでに述べてきたように明治から大正にかけて、日本各地で電力会社の設立が相次いで起こりましたが、関東大震災を契機として電力会社の統合がすすみ、五大電力と呼ばれた東京電灯、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力の5社に収斂していきました。
しかし前回も触れたように、1939年の国家総動員法によって、これらの電力会社は特殊法人の日本発送電㈱と関連する9配電会社に統合されました。現在、電気事業連合会に加盟の電力会社のうち、沖縄電力を除く9社は、この日本発送電から発した、といえます。(沖縄は米軍の占領など複雑な背景があって、連合会への加盟は2000年3月です)
日本発送電というのは、戦時統制を目的として電力事業を政府の統制下に置くために作られた電力管理法(1938年)に基づき、1939年4月1日に設立、本社所在地は東京市小石川区(現・東京都文京区小石川一丁目)でした。
以上の3項目に該当する発電・送電施設は、すべて日発が管理することになったのです。広島県・中国地方で言えば、大田川にある立岩ダムの打梨発電所は1939年に、江の川水系の神野瀬川にある高暮ダムの神野瀬発電所は1945年に接収され、運転開始しております。
例外として企業の自家発電については、当初は摂収の対象から外れるケースもありました。たとえば王子製紙が所有していた千歳発電所群などです。本来なら地域開発のために行われる河川の総合開発についても、軍部の意向が大きく影響するようになってきました。
当時の標語に「電力は戦力」というのがありますが、東条内閣は電力行政を軍需行政の監督下に置く方針を打ち出し1943年11月、首相が大臣を兼任する形の軍需省を設置しました。これにより日発の監督官庁であった逓信省電気局が軍需省電力局に編入されたのです。広島県の広発電所(黒瀬川)は呉海軍工廠のために建設されました。さらに、新規電力開発を急ぐ軍部=政府は、中国人・朝鮮人労働者や連合国軍捕虜などを、ダムや発電所の過酷な工事に使う、という事態も起こりました。長野県の平岡発電所(天竜川)や広島県の滝山川発電所(滝山川)がそれですが、軍の管理下に置かれるよりも前から、もともと日発は上から目線の人権無視体質を持った企業でした。工事従業員に対する安全確保も不足し、すでに黒部第三発電所の工事ではトンネル内の火薬爆発事故で、多数の従事者が殉職するなど問題が多く、その体質は未来に持ち込まれそうです。
その中国支店は現在の広島市中区大手町三丁目にありましたが、ここで上記のような好ましくないプランが練られたわけではなく、発電され送電されてきた電気を、家庭や企業に配る会社へ引き渡すのが仕事です。『広島市被爆70年史』によりますと、中国配電に発電所からの電気を送り届ける日発(日本発送電)は7月20日、西部地区給電指令所を広島に設置しております。それらの立地場所が市の中心部にありましたので、想定外の危険に見舞われることになります。すなわち1945年8月6日の原爆投下です。広島支店は爆心地から900メートルだったので、木造2階建ての社屋は崩壊し燃え尽き、支店勤務の117人中115人が、1年以内に死亡しています。これは大変な被害でした。
一連の仕事をしていた中国配電㈱も大きな被害を受けますが、『広島県史 原爆資料編』は、《中国配電株式会社ハ去ル四月三十日第一回空襲被害ヲ受ケ》と記し、原爆投下まで一度も空襲がなかったという通説に反する記述を載せており、他の手記を基にした記述にも広島空襲のことは載っています。すなわち同日の朝食時に、雑魚場町国泰寺近くの中国配電㈱の倉庫に500キロ(1000ポンド)爆弾が投下され、出来た穴の直径は17メートル(18ヤード)だった由です。ついでながら7月28日には、B24の編隊が低空で飛来しましたが、日本軍の高射砲弾が一機の尾翼に命中、五日市の山中に墜落しました。8月6日は爆心地から2キロ以内の供給設備は壊滅的な打撃を受け、被爆と同時に全市が停電になりました。
ふたたび『広島県史 原爆資料編』に戻りますが、普通の記述体で理解しやすいように書けば次のようになります――中国配電は原爆の空襲にも遭い、本社・支店・電業局はいずれも全焼し、従業員600名中250名の死傷者行方不明者がありましたが、市内段原・三篠の変電所は一部損壊の程度だったため、会社関係従業員100名ないし150名、その他より50名乃至100名の応援により復旧に着手し、市内南部地区(宇品方面)の電灯被害も軽微だったので、8月7日より送電。東部地区および周辺部(広島駅とその周辺)に対しては近く送電予定、となっておりますが、広島駅には8月8日に電灯が灯りました。これでみますと、日発広島支店では117人中115人が1年以内に死亡しているのに対し、中国配電では従業員600人中250人の死傷者、行方不明者ですから、死亡率はかなり少ないように思われますが、もともと配電業務は広島市内の一カ所に集まっているわけではなく、各地に分散している員数がかなりいるので、やはり大きな被害を受けながら必死で復興業務に立ち向かった、ということでしょう。
そこで広島市が発行している『戦災復興事業誌』によりますと、被爆1年後の1946年8月現在での配電設備は、被爆前に比べ電柱で40%、電線が約59%、変圧器約78%まで回復しました。家庭への電力の供給は、電灯需要家数で33%、電力需要家数で56%まで回復しました。
こうして8月15日の戦後早々から、中国配電㈱も日発広島支店も懸命の努力を続けますが、その行く手には電力再編成、日発(日本発送電)の解体という大問題が控えていました。
爆弾の落しは雑魚場・国泰寺いまは中区の中電あたり
原爆ですべて灰燼に帰したれど生者は不眠不休の復旧