連載 原発の蔭と影第18回 中国電力出発 天瀬 裕康

 また余談が入ってすみません。東京電力は柏崎刈羽原発7号機(新潟県)の再稼働に向けて準備を進めていますが、「4月15日から核燃料の装填を始める」と、原子力規制委員会に申請したそうです。福島第一原発の事故以後に再稼働した全国の原発はみな、地元の同意を得てから燃料を装填していますし、年内の再稼働を目指している中国電力の島根2号機(島根県)や東北電力の女川2号機(宮城県)は、同意は得てもまだ燃料は入れていません。
 これらに比べると東電のやり方は唯我独尊、自分の都合次第ですべてが決まると思い込む体質は、なとも治らないようですね。それでは東電の、この我儘な体質の発生などにも触れながら、中国電力の誕生へと話を進めていきましょう。

 戦後の復興は、痛みを伴っていました。すべてはGeneral Head Quarters 略して GHQ (連合国軍総司令部)の意のままに動かされていたからです。戦争が終わっても、言論の自由は戻ってきませんでした。プレスコード(新聞遵則)によって、殊に原爆関係は厳しく規制されました。そうした不自由の中で、広島には人が戻り、復興に取り組んだのです。
 終戦直後の電力事情は、被爆後終戦直前の様相のまま、荒廃した状況が続いていましたが1951(昭和26)年5月1日に、前にも名前の出ました松永安左エ門が、電気事業再編成審議会委員長としてGHQを説得し、日発(日本発送電)中国支社と中国配電の合併による中国電力㈱の設立に踏み切らせたのです。この時日本の官僚は、日本発送電が解体されるのに難色を示しましたが、戦時中から官僚嫌いで、そのため生命の危険を感じ実業界から引退していた松永は、GHQを利用したともいえますし、GHQは松永を使って改革をしたのでした。
 当時のGHQポツダム政令は、日本の国会決議より効力が強かったのです。しかし松永案とGHQの考えにもズレがありましたが、松永の幾度にもわたる忍耐強い説明により、とうとうGHQが松永案を認め、全国を九つの地域に分け日本発送電も9分割し、各地の発電会社と分割された日発の一つをペアにした九つの電力会社を、1951(昭和26)年5月1日に発足させ、新しい民営の電力会社が、その地域の発電・送電・配電の全責任をもつようにしたのです。従って、これは中国地方といった地方だけの問題ではなく、たとえば中央の東京電力㈱(現・東京電力ホールディングス㈱)も設立は1951年5月1日でした。ただし東京電力には、旧日発の官製部分が多分に残り、民営でないムードを温存したようです。
 ともあれこの日を境として、戦後日本の電力会社システムが展開されるのですが、しばらくは本社・広島市中区小町の中国電力㈱につき述べさせて頂きましょう。

 中国電力㈱は、広島では「中電ちゅうでん」という略称を使っていますが、少し規模の大きい名古屋の中部電力も中電なので、「中国電」にしておきます。その場合は、お隣の中華人民共和国の電力との混同が起こりかねませんが、そこは文脈から判断して頂くことにして、中国地方における中国電の話をすすめさせて下さい。
 発足直後の中国電は、夏の異常渇水による電力不足に悩まされましたが、ただちに、水力を中心にした電源開発に取り組み、設立翌年の10月には東京・大阪証券取引所に上場しています。1953年の電力使用制限を最後に、電力不足は解消しましたが、55年頃から日本は高度経済成長の時代に入り、瀬戸内海沿岸の鉄鋼や重化学工業が発展し、家庭では家電製品の普及が進み、電気の需要は増加の一途を辿りました。
 これに対応するため、1958年4月には電力の広域運営体制を発足させ、59年頃より大型火力発電所の開発を進めました。具体的には、広島と呉の中間にある安芸郡坂町の坂火力発電所1号機の運転開始により、電源構成の主力は水力発電から火力発電に移行しました。いわゆる火主水従です。余談になりますが、後に坂発電所は廃止され、跡地には「平成十六年十一月吉日建之 中国電力坂発電所OB会」と彫った「坂発電所跡記念碑」が建っています。
 さて、火力発電への移行は1955年から翌年にかけての神武景気、59年から翌年にかけての岩戸景気といった懐かしい言葉が思い出される時代で、電力の供給は需要に追い付きそうにもありません。公害として硫黄酸化物、窒素酸化物による大気汚染も引き起こします。これに対し中国電は技術改良を加え、74年には水島発電所(岡山県)2号機に、石油火力発電では国内初の排煙脱硫装置を設置し、79年には石油火力で世界初の排煙脱硝装置を下松発電所(山口県)に設置、80年には石炭火力で世界初の排煙脱硝装置を下関発電所(山口県)に設置するなど、大気や環境への対策技術を実現してきました。ただし火主水従といっても、水力発電を捨て去ることはできず、69年7月には中国電としては初めての揚水式発電所である新成羽川発電所(岡山県)が全面運転を開始する、といった状況です。
 ところが、第4次中東戦争を引き金にした1973年の第一次石油ショックに際して、石油の価格が急騰しただけでなく、需給が一挙に逼迫し入手困難も起こりました。当時の日本で発電する電気量の約75%は石油火力によるものでしたから、電力不足が起こりました。中国電は石油の代わりに石炭を使うことを考え、新宇部発電所(山口県)、水島発電所では燃料を石炭に替え、石炭用新小野田発電所の新設も決めました。
 原子力発電所に関しては1974年3月29日に、島根原子力発電所(島根県)1号機が営業運転を開始しています。運転開始日から考えますと、石油不足に対応するためとは言いかねますが、ここから暫らく、原発の問題を調べてみましょう。

滝落ちて水力発電うごきけり
花火焚く化石燃料まに合わず 
バラの芽か原発までの長い道

(2024.4.10)

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