東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で、今なお立ち入り禁止の面積が62%(2023年2月現在)もある大熊町に、若い女性たちが移住し、毎月一回集まってカクテルパーティーを開いているという記事が、9月1日の朝日新聞朝刊2面に載っていた。「時時刻刻 大熊の誤算」とタイトルがついていた。サブタイトルには「町づくり魅力 若い移住者」とあった。
大熊町中心部の避難指示が昨年6月解除されたが、近くに食料品や日用品など買い物ができる店はない。あるのは1軒の理髪店だけだ。東の海側には東京電力福島第一原発の周辺などを切り開いた中間貯蔵施設が広がり、原発敷地には未だに汚染水が溜まり続けている。切り開かれた原発周辺には人々の住居や、田畑、山林などがあった。彼らは汚染された土地に住めなくなり、仕方なしに手放したのだろう。四キロメートルほど海岸線を北に下れば、双葉海岸がありすでに二回も放射性物質のトリチウムを含む処理水が流されている。
東京都出身の26歳の女性は、昨年の避難指示解除に合わせて一軒家を借りて移り住んだ。周囲は空き家ばかりだが、築100年以上の古民家をカフェやゲストハウスに変えようと奔走している。3年前に町を訪れ、インターンシップを手がける会社の社長に「町に学生を招く事業を担わないか」と持ちかけられたのがきっかけだという。
駅の西側にある町中心部は原発から4㎞の地点にある。駅周辺には多くの家があった。何件かの店も、比較的新しい人気のレストランもあった。事故後一帯は帰還困難区域になっていた。前町長の渡辺利綱氏(76)はこの駅周辺を町民の故郷『本丸』と位置づけ、繰り返し国に除染を求めてきた。しかし、昨年6月末に誰もが暮らせるようになっても、元あったスーパーや、県立大野病院は廃墟のままだ。筆者も大野病院に、母と一緒に母の知り合いの方を見舞ったことがある。
この1年余りで避難先から町中心部に戻ったのは、9月1日現在で45人、そこに町民より多い69人(9月1日現在)が移住してきた。そのうち11人が20代の女性だという。多くの町職員は想定していなかったという。
千葉県から引っ越してきた23歳の女性は、インターンシップの指導役を担う。北海道から来た24歳の女性は、国が原発事故被災地で築こうとする産業の一つ、航空宇宙産業を手がけることを目指す。今駅前では商業施設やオフィスビルの建設に向けて造成が進む。先の26歳の女性はいう。「街づくりにゼロから関われる場所なんて、ほかにない。不便さ以上に挑戦のしがいがある」
町企画調整課の48歳の課長補佐の男性は「前例がどこにもない街づくりなだけに、外の人の手を借りなければ復興などできない」と考えている。
移住者の女性たちは、大熊町出身の20代の女性たちのLINEグループに加わって、「熊女の会」を作り、この夏から毎月町民にも呼びかけ、カクテルパーティーを催している。11年間の避難生活を終えて街に戻ってきた65歳の女性は娘二人と参加している。「人がほとんどいない町が、こんなに賑やかになるなんて」女性の言葉だ。女性は夫婦で戻ったが、100件あった自治会内に戻ってきたのは3軒だけだ。夫もいう。「年を重ね、通院で動けない高齢者が増えた。帰りたくても避難先にかかりつけ医がいる。5年前に避難指示が解除されていれば違っていたはずだ」
筆者の知人から送られて来たメールの文字が目の前にちらつく。――高齢者削除政策――、 政治家たちが、違う、と否定しても、実際行われていることはそうではないか。あらかじめ国が復興計画を立て、住民のいなくなった浜通り地方に、立派な道路や防潮堤や建物などが建設されていく。大熊町や双葉町のように、元の町民よりも若い移住者が増えていく。一見、原発問題はもう解決したかのように見える。筆者の周囲でもまもなく13年になろうとする原発事故のことや、原発問題について語る人はいなくなった。
町企画調整課の課長補佐の男性が言うように、「前例がない、外の人の手を借りなければ復興はできない」のは当然だ。12年も経てば元々農業や漁業で生計を立てていた人々は、避難先で力尽きてしまったり、今なお望郷の念に駆られながら、介護を受けたり、治療を受けたり、避難先で暮らさざるを得ない状況に置かれている。代わって大地を耕す人はどうするのか。街の近代化ばかりを進めて、命の元を生み出す広い土地を、樹や草で覆われたままにしておくのか。人間の数よりも多い野生動物が人の住む場所まで生息圏を広げてきている。野生動物は田畑を荒らすばかりでなく、感染症もまき散らす。その前に放射能という魔物が未だに大地に覆い被さっていることを忘れてはならない。
移住者たちは、周囲の状況を正しく見極めているだろうか。気が付いても知らないふりをするのだろうか。すぐ近くの海に放射性のトリチウムを含む処理水が流されているのを知らないのだろうか。周囲は空き家だらけだが、何も感じないのだろうか。以前大熊町町長が話していたことを思い出す。
「処理水を海洋放出することについて、誰も何も言わない」
原発から300メートルしか離れていないところに生家があった友人は、「大地が汚されてしまったことが悲しい」と嘆いていた。彼女はリタイアしてから、現役の夫を関東に残し、夫の故郷佐賀で一人暮らす。彼女は失われた故郷の大地を取り戻すかのように、家の周りの畑を利用して、有機肥料を使って無農薬野菜を育てている。何種類もの野菜を収穫すると、わざわざ九州から関東に住む筆者にまで送ってくれる。
11月はじめ、彼女の招きで真新しい彼女の家に滞在させてもらった。今回は友人が大学院の教員時代の学生だった女性と、筆者が可愛がっている大学生の女の子と3人でお世話になった。ちょうど佐賀ではコロナ後初めて大々的な国際バルーン大会が開かれていて、近くの嘉瀬川あたりは大賑わいだった。大学生の女の子は朝五時起きして、バルーンの打ち上げから撮影をしてインスタグラムなどに載せていた。友人の育てた野菜をふんだんに使って、友人と彼女の教え子は料理をし、筆者は最高齢者だったので、昼寝をしたり、ぶらぶらして過ごした。夕食の時間は高齢者から若者まで女性4人が集まり、賑やかに食卓を囲んだ。
四日間、楽しい時間を過ごして帰途に就いたのだが、帰宅して先ず考えたのは、佐賀にも九州電力(株)の玄海原子力発電所があることだった。1975年に運転開始されているので、かれこれ48年になる。政府は既存の原発を60年に延長すると決めている。
佐賀を離れる日の朝、彼女の車で佐賀空港まで送ってもらった。空港に近づくと友人が声を大きくして指さしながら言った。「見て、オスプレイの基地よ!」
彼女の指さす方を見ると、佐賀空港の隣でオスプレイの基地の工事が着々と進んでいた。完成して、オスプレイが基地を使用するようになると、すぐ側で民間機も離発着する。事故の多いオスプレイが民間機を巻き込むことにならなければいいが……。もう日本の国のどこを探しても安心して住めるところはないのではないか。
佐賀を案じているうちに、10月下旬福島第一原発では20台と40代の作業員二人が多核種除去設備ALPSの配管を洗浄中、高濃度の汚染原液を浴び入院したと新聞で報道していた(朝日11月14日朝刊)。二人は防護服の上に東電が求める合羽を着ていなかった。原発内でシャワーなどによる除染を試みたが、20代男性は基準の33倍、40代男性は基準の5.2倍の汚染が残ったという。
マスコミの報道を鵜呑みにすることはしないが、こういう類いの報道は、実際より少なめではないかと勘ぐりたくなる。これまでどれほど隠され続けてきたことか。もう騙されないぞ、と身構えなければならないことが悲しい。高濃度の汚染原液を浴びた男性たちの身体に後になって悪影響が出ないことを祈るばかりだ。大熊に移住しカクテルパーティーをする若い女性たちの隣には、常に命の危険に曝されている人々がいるのだ。
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