連載 故郷福島の復興に想う 第16回――13回目の3・11 谷本 多美子(アイキャッチ画像 請戸の被災者慰霊碑)

 13回目の3・11が巡ってきた。年を経るごとに、記憶は薄れるどころか、言いようのない感情に襲われる。視覚から、聴覚から、情報は水のように入り込んできて、全身に積もってしまったようだ。
 少し前から、メディアを通じて、東日本大震災の被災地の今、や被災者についての報道がされてきた。真っ先に、福島の原発事故の報道に目を通していたが、だんだんと見るのが辛くなり、筆者個人の許容範囲を超えるようになった。活字も映像も避ける日が何日か続いたが、3月に入ったある日、母校双葉高校の後輩から、動画が送られてきた。気楽にクリックすると福島出身のミュージシャン、だっぺズとナンバーザが歌う「予定~福島に帰ったら~」という曲と福島の風景が流れてきた。
 
 福島に帰ったら ままどおる食べる 
 福島に帰ったら くるみゆべし食べる
 福島に帰ったら いか人参食べる
 福島に帰ったら たまこんにゃく食べる

 福島に帰ったら バークイーンで飲む
 福島に帰ったら ららみゅーを覗く
 福島に帰ったら 芋煮汁食べる
 福島に帰ったら 猪苗代湖に行く
 (後略)

 ざっとこんな歌詞だった。浜通り、中通り、会津地方からピックアップして歌詞を作っている。福島だけでなく、たまこんにゃく、芋煮汁など山形あたりの食べ物もある。いつからか福島に入ってきたのだと思う。筆者が18歳までいた相馬郡小高町(現南相馬市小高区)にはまだ、ままどおる(人形の形をした洋菓子)やくるみゆべしはなかった。40年前に福島第一核発電所ができて、徐々に人が集まるようになり、中通りの老舗の銘菓なども販売する店ができて、簡単に買えるようになった。バーなども浪江町には次々に増えていった。ある時期は、バーにアメリカ人もいたと聞いた。あの田舎町にアメリカ人?とそのときは思ったが、後になって謎は解けた。
 福島第一核発電所の原子炉はすべてアメリカのゼネラル・エレクトリック社(GE)によって設計されたものを基本としているのだから、1960年代から70年代にかけて、アメリカ人の技師たちが大熊、双葉、浪江辺りに住んでいても不思議はなかったのだ。大熊出身の後輩の一人が、アメリカ人家庭のクリスマスパーティに招かれたことがある、と話していたことも頷ける。
 大熊に嫁いだ同級生が原発事故の後、故郷を遠く離れ栃木県境の近くに移住している。彼女にも転送してみた。「改めて福島の素晴らしさや美味しい食べ物があることに気づかされました」と返信があった。
 筆者と同じく、18歳で故郷福島を離れた別の友人からは「上浦(彼女の実家)に帰ったら、家の前にあった山に登って、ワラビ取りをしたい…。もう叶わぬ夢となりました」と、切ないメールがきた。上浦は筆者の生家より少し内陸に入った集落だ。山菜などは下浦よりも豊富だが、未だに福島の、自然に生えた山菜や茸は危険で食べられない。彼女の生家も解体されてしまっているだろう。まさに、叶わぬ夢、だ。
 津波と原発事故で故郷を追われ,何年間も千葉県で避難生活を送っていた中学の同級生は,漸く故郷に帰ることができて、ご主人との穏やかな日々を送りつつ、地元にも貢献しているが、彼女からは「福島に住んでいる私にはこの歌はさっぱり響かないなあ」と返ってきた。感じ方は様々だ。故郷福島の失われたものの大きさを改めて思わないわけにはいかない。
 震災、原発事故以来、気になっていることがあった。照美さんという高校の同級生が浪江町請戸の苕野くさの神社に嫁いでいた。2011年3月11日の東日本大震災のとき、海岸から300メートルの地点にある苕野神社は津波によって根こそぎ流された。照美さんご夫妻、長女ご夫妻が犠牲になった。助かったのは幼稚園にいたお孫さんと聞いて、胸が潰れそうだった。後日、照美さんの三女の方が横浜におられることを新聞で読んで、胸を撫で下ろしたが、その後のお孫さんたちのことがずっと心にかかっていた。何かできるわけではないが、幸せであって欲しいといつも思っていた。
 「予定~福島に帰ったら~」の動画を、浪江で被災し、避難生活を経験し、相馬市の最北端にある新地に移住したもう一人の高校の同級生にも転送した。すぐに彼から返信がきた。「今朝の福島民報に、震災で亡くなった照美さんの家族の記事が載っていましたよ」と、新聞の記事も添付されていた。
 なんと、照美さんのお孫さんではないか。福島民報社会面「今を生きる 2024」という欄に、励ます音色響かせたい 浪江町出身専門学校生 鍋島悠輔さん20 楽器製作の道へ、と見出しの大きな文字があった。夢中で記事を読んだ。

 鍋島悠輔さんは小学校1年の時に、両親、祖父母が津波で犠牲になり、遺児となる。父彰教さんは未だに行方不明だ。筆者は悠輔さんが遺児になったのは幼稚園の時、と人づてに聞いていたが、正確には小学校1年の時だと、記事を読んで知った。
 悠輔さんは小学校1年の時、請戸小学校近くの学童保育で津波に襲われる。前にも述べたが、請戸小学校も海岸から300メートルに位置する。苕野神社と同じく津波に襲われるが、子供たちは全員無事避難する。今では奇跡といわれている。絵本『請戸小学校物語』にあるが、地震が起こったとき、迅速な校長の判断と、一人の子供の「津波の時は大平山に逃げろ」と家人から聞いていたことを発した言葉に、教師が真摯に耳を傾けた結果だと聞く。
 悠輔さんは数日後に姉と再会するが、両親、祖父母には会えなかった。淋しさが募り「いつか迎えに来る」と自分に言い聞かせていた。
 地震、津波の後は原発事故だ。悠輔さんと姉は避難所を転々とした後、3月下旬、神奈川県平塚市に住む父方の祖父母に姉と引き取られる。間もなく、祖父母と母の死を祖父に告げられたが、最愛の人々の死を理解できず、涙を流すことはなかった。父さんは戻って来るんじゃないか、との願いは叶わなかった。ときおり目の前に立つ両親の夢を見ては悲しむ日々が続いた。
 悲しむ悠輔さんに転機が訪れた。小学校高学年でイギリスに研修旅行に行ったとき、各国の子供たちに歌を披露して場を盛り上げた。そのとき、これまでに味わったことのない爽快感に包まれる。この経験から「音楽に関わりたい」と思うようになる。夢中になれるものを見つけると、少しずつ沈みがちな気持が減っていった。ギター、ベースの製造や修理は細かな作業が多く、想像以上に難しかったが、悪戦苦闘しながらも専門学校の作業台に向かっている。目標は聞く人を励ます音色を響かせる楽器を作ることだという。
 3月11日に福島市で行われる県主催の震災追悼復興祈念式で、悠輔さんは遺族代表の言葉を述べる。「家族の愛を大切にしてきたこれまでの人生を堂々と伝えたい」
 
 悠輔さんと姉の13年を思うと、やりきれない。愛する家族を一瞬にして奪われ、故郷から遠く離れた地で、小さな胸に悲しみを押し込めて暮らさなければならなかったとするなら、彼らを今日まで支えてきたものは、引き取って育ててくれた、おじいさん、おばあさんの愛情はもちろんだが、ご両親の彰教さん、弥生さん、照美さんご夫妻の深い愛情が、ずっと生き続けていたからだと思う。

幾代橋小学校から請戸方面を臨む


 誰が聞いても涙する話しを、国民の税金でパーティーをし、裏金を作り、金儲けをしている〇〇党の政治家たちに聞かせても、何か感じるだろうか。
 多様性というテーマの会を開いて、肌を露出した女性のダンサーを呼んで、男性が口移しに紙幣を渡したとあきれた報道がされていた。それも〇〇党議員。しかも祖父は元総理大臣、父も政治家。このことを問われた加藤〇〇という女性の議員も、多様性云々と言ったらしい。多様性について、彼らのレベルで言うなら、多様性のためには裸体の男性を大衆の面前に登場させることを厭わないのだろうか。福島の避難民がまだ3万人もいるとき、F1の核廃棄物が行き場もなく増えているとき、廃炉への道筋も見えていないこのとき、照美さんたち、悠輔さんとお姉さんを思い、劣化してしまった政治家たちに怒りを覚えつつ、現実を受け止めきれないでいる。

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