書評 人間の生きた時間~橘かがり著『女スパイ鄭蘋茹の死』 森川 雅美

『女スパイ鄭蘋茹テンピンルーの死』
橘かがり著
2023年3月15日発行
徳間文庫
720円+税

 「鄭蘋茹」の名前を聞いて、あの人物かとすぐにわかる人は多くはないだろう。私自身、不勉強ながら今まで知らなかった。実際「参考文献」を見ても、一次資料といえるものは少なく、「鄭蘋茹」そのものについての書籍も2、3冊しかなく、ネットで調べてもわずかな情報しか得られない。母は日本人の中国豪商の令嬢であり、当時のグラビアを飾るほど美人だったが、国民党のスパイとなり、日本の要人の暗殺未遂のため処刑された。そのくらいである。歴史の舞台に登場するのは、1938から1940年のわずか2年足らず、26歳で銃殺され、しかも日中戦争の最中の動乱期。当時の日本側の史料の多くは、敗戦時にほとんど焼却され、中国側も日本の侵略に内戦も重なり、詳細な史料は少ない。いわば東アジアの近代史でも闇の深い時代であり、史料が少ないのはいた仕方ない。
 しかし、著者は数少ない情報から、想像力を広げ、戦乱の時代を自ら強い意志を貫き、花火のように輝き散っていった一人の女性を造形する。いうまでもないことだが、歴史小説は歴史の事実を科学的に推測するのではなく、歴史的な事象を背景に、その時代を生きた人間の時間をいかに描き出すか。著者もそのことを充分に理解していて、読後に力強い一人の女性像が立ち上がってくる。まずは作品背景を的確に描き、読者を作品世界に導く冒頭を引用する。

 車は急にスピードをゆるめ、ふいに停車した。すかさず運転手と憲兵が車から降り、悲鳴を上げる女の腕を抱えるようにして、車外に無理やりにひきずり降ろした。

 ただならない緊張した状況が無駄なく語られ、時代の雰囲気が読者に染みていく。続いて時代と作品全体を覆う、閑散とした風景描写が置かれ、加えて小説の舞台である「上海」という言葉も記される。このような読者を引き込む的確な描写の後に、時代の説明がされ、実に上巧みな構成だ。そして、背景を整えた後で、「女」が動き出す。

立ち居振舞のおっとりした優雅さに、(中略)さすが良家の子女は違う。しつけが行き届いているとはこういうことをいうのだろうか。

 育ちのいい清楚な女性のイメージだ。描写もうららかな午後を思もわせる落ち着いたものだが、女は監禁されている。そして、一つの電話から状況は一変し、「暗殺計画」「(暗殺のため)魅了して愛人となる」など、血なまぐさくなり、処刑の場面になだれ込む。「私は中国人として、そんなに悪いことをしたのでしょうか」「顔は撃たないで!」 処刑の場面の声は悲痛だが力強い。
 このように序章で、優雅だが信念を強く持つ女性像が印象付けられる。なぜ美人の令嬢が暗殺計画に加担し処刑されたのか、謎を解く形で小説は読者を引き込んでいく。そして、謎が解かれていくのと共に、一人の女性の印象に肉がつけられていく。著者にはもう一つ企みがある。序章は「女」としか書かれていない。もちろん読者は「鄭蘋茹」として読むが、最初から固有名詞で書かれるのとは印象が違う。序章で記されたいわば素描ともいえる造形に、読者は自ら目鼻や細部を書入れるように読め、人物像はより強く刻まれる。
 最後に勝手ながら、このような歴史に翻弄された女性を見事の描いた著者が、原発事故の翻弄された女性をどう描くのか、読みたくなった。もちろん著者の希望や求められる作品とはまったく関係ないが。

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