連載 故郷福島の復興に想う 第11回 ――追い詰められて  谷本 多美子(アイキャッチ画像 南相馬万葉の里風力発電)

 NHKの番組で「事件の涙」というのがある。福島第一核発電所の汚染水を処理水としてもうすぐ海洋放出する、とマスコミが盛んに報道している頃、知人から「ぜひ見るように」とメールがあった。こうも付け加えてあった。「人にはいろいろな思いがけない試練がありますが、最も酷い試練です」
 深夜番組だったので、さっそく録画して、後日少しずつ見た。一気に見てしまうと、大切なことを見逃したり聞き逃したりするので、自分で大切と思う番組はいつもこのようにしている。
  福島第一核発電所爆発事故により、福島県は浜通り地方だけでなく、内陸部まで放射能の被害は及んだ。飯舘村は最も有名だが、その途中の町や村は12年経った今でもまだ立ち入り禁止の場所がある。明らかに立ち入り禁止になったり、避難指示が出たりした地域はいいが、欧米諸国に比べたら基準値が何倍も高いのに、場所にもよるが対策がとられていない地域がある。郡山もその一つだ。郡山は飯舘村を通り越して中通りになる。
 人が1年間に浴びても差し支えない放射線量は年間1ミリシーベルトといわれているが、当時郡山は10.1シーベルトもあった。「事件の涙」の最初の舞台は群山だった。郡山から都内に自主避難をしていた一人の女性(54歳)が、時間の経過とともに次第に追い詰められ自ら命を絶った。そこまでの経緯を番組は丁寧に取材し、報道していた。
 核発電所爆発事故の後、女性は夫と13歳の息子を郡山に残し、12歳の娘を連れ、都内の団地に自主避難した。家を新築しローンがあり、仕事も郡山で始めた夫は郡山を離れることができなかったのだという。女性はSNSに13000通ものつぶやきを残している。

「…ダンナさんに、家族を不幸にした張本人は私だとなじられても、子どもたちの将来をあきらめられません」(2011年7月16日)
「郡山を離れる決断をしました」(2011年7月22日)
「私はもう命をかけて2人の子供を守る」(2012年12月16日)
 特に娘に対しては、
「娘の寝顔を見て泣いています。いつか母になるこの子を郡山で育てていたら、私は正気を保てる自信がない」
「私は娘が将来結婚し、子どもを持つときに、不安のない幸せな妊娠期間を迎えて欲しい…そのためには、私が我慢できる基準値に自宅周りと室内の線量が下がるまで、郡山を離れる決断をしました」

 しかしこの後少しずつ家族が壊れていく現実に苦悩する言葉が続く。

「心のエネルギーが限界」
「声を出して泣いておく」

 女性の死から6年、夫が初めて取材に応じていた。夫は語る。
「どこにでもいる夫婦が“放射能”3.11が起きた」
「放射能ということによって考え方がこれだけ違う、お互いに」
 二人は東京で結婚し、夫が自営業を始めたので、二人の故郷である郡山に帰り、マイホームも建てる。
「子どもにふるさとを作ってあげたいと思ってこっちに引っ越してきたわけだから」
「子ども部屋作ってやって、子どもの喜ぶ顔が見たいし、そこでみんなで中学校高校くらいまでは」
 
 都内の団地に住み、仕事を掛け持ちしながら子どもを育てる女性、それでも月2回はバスを利用して郡山に帰っていた。高校入学を機会に息子も母と妹の元に来て一緒に住むようになる。郡山に帰るたびに夫との価値観の差が開いていく。郡山に帰る回数も減り、夫からの送金も減ってくる。女性の肉体的精神的、経済的負担は増え、ついに難病と鬱病を発症するまでになる。事故から4年が経ち、ぎりぎりまで追い詰められていたとき、県が自主避難者への家賃の補助を打ち切ると発表する。このとき女性にはまだNPO法人を頼るエネルギーは残っていた。そこで、家賃3万円で借りられるアパートを紹介される。が、病状は悪化していく。

「へとへとの体で横になっても眠れない」
「助けてください! 私が今できることを知っていたら、どうか助けてください」
 最後の叫びを、SNSではなく、誰かに直接ぶつけることができたら、と思うと口惜しい。番組を見るように勧めてくれた知人は、
「二人の子どもさんが大学を卒業されたことは救いでした」
 と言っていた。今は二人の子供たちは社会人になっているという。悲惨な事件、事件と呼ぶことに抵抗はあるが、酷い出来事の中で、子供たちまで潰されなかったことは救いというのかも知れない。そう思う一方で、子どもたちの心の傷を考えると辛い。社会人になった子供たちには、母が命がけで守った命なのだから、どうか命を大切にして生きてほしい、と言いたい。

 元夫には、自主避難という選択肢はなかった。インタビューから、家族一緒に郡山で暮らしたい思いしかなかったと感じた。あるとき帰った女性に「俺の家庭を壊しやがって」と怒りをぶつけたのも、思い通りにならないジレンマからだったのか。女性は元夫に「私もあなたもひとりぼっちだよね」と言ったという。一番頼りたい相手に頼れない淋しさから出た言葉ではなかったか、元夫はどう感じたのか、答えは聞けなかった。

 筆者は日本バプテスト連盟のキリスト教会の会員でもある。郡山のコスモス通りというところに、同じバプテスト連盟のキリスト教会がある。3.11の時に比較的若い牧師が働いていた。牧師にはまだ幼い子どもがいたので、連盟本部から、郡山から離れるように助言がある。連盟本部からの依頼で無牧師になった教会をサポートしていたのは、12年前で50代の女性の牧師だった。郡山も、放射線量の高いところと、比較的低いところがあり、低いところには仮設住宅が建ち並び、富岡町からと記憶しているが避難した住民が住んでいた。12年前、連盟主催で「福島フィールドワーク」が持たれた。浜通り一帯がまだ生々しい傷跡が残っているとき、郡山を起点として、線量計を持ちながら被災地を巡った。
 ちょうど母の日が近く、女性の牧師は被災した住民の方に配るためにカーネーションの花を準備していた。カードも付けたいから、とフィールドワークの参加者に小さなカードが1枚ずつ配られ、めいめいが短い言葉を書いた。書き上がったところで必ず牧師に見せなければならなかった。原発事故で被災し心の傷を負っている人々をさらに傷つける言葉が書かれていないか、調べるためだった。筆者も牧師の指示に従ってカードを書き、点検を受けた後、カーネーションの花を1件1軒配って回った。
 細やかな気配りをする牧師だったが、数年後、卵巣癌を発症する。癌と診断され、手術を受けたのは故郷宮崎の病院だったと聞く。後に、郡山の病院で受診しなかったのは、郡山の人々に心配をかけたくなかったからだったと聞いた。治療の甲斐なく、牧師は亡くなられた。国や県は、放射能とは関係ありません、と言い切るだろうか。震災、原発事故関連死は2000名を超えているのに、国は「原発事故で死んだ人は一人もいない」という。

 失われた2000名もの尊い命を無視するかのように、国は原発の再稼働を認め、古い原発の60年延長を、さらには新設まで計画している。住民の理解が得られるまで処理水の海洋放出はしないと言っていた政府が、説明を十分重ねてきたとして、海洋放出は始まった。トリチウムの人体への悪影響を懸念する住民の声には耳を傾けることもなく。
 台風13号の影響で浜通りも甚大な被害が出ている。10メートルを超える防潮堤を築いたばかりの故郷南相馬市の井田川から、筆者の生家があった辺りを流れる宮田川という川は氾濫水域まで達して、真夜中何度も防災無線で避難勧告が出され、住民を悩ませた、と何年ぶりかで漸く帰還した友人は嘆いていた。3.11の時から井田川の海口閘門には問題があり、早く直さないと大変なことになる、と危機感をもっている住民もいるという。
 命に関わる重大なことは後回しにして、工事車両しか通らない道路などの工事は進んでいく。

福島子羊幼稚園の園庭にある線量計

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