連載 故郷福島の復興に想う 第10回 ――大熊町町長に会って 谷本 多美子

 夜になっても気温が下がらない、7月のある夕刻、都心部にあるホテルに大熊町町長吉田淳氏の話を聞きに行った。前回の通産省参事官の時と同様、福島県人会の企画による講演会だった。
 冒頭、町長は自己紹介を短くする。東日本震災・福島第一原発爆発事故前は大熊町の職員であったこと、震災、原発爆発事故当時は直接避難者と関わったこと、などを短く話したのだが、被災者との関わりについては想像が膨らんでかなりショックを受けた。
「私は自分のことを利口だとは思っていないけれど」と前置きして話し始めたのは次のようなことだった。福島第一核発電所が水素爆発を起し、大熊町民は緊急に避難しなければならなくなった。国道288号線を通って、会津若松方面をめざしていたが渋滞に巻き込まれ、目的地に着くまでは普段の何倍も時間がかかった。町民の中には高齢者から乳幼児まで含まれており、誰もが体力の限界に達していた。パソコン一台も持ち出せず、住民の家族構成も把握できないまま、辿り着いたところで、旅館やホテルに住民たちを避難させた。程なく住民たちの不満が爆発し、「あほとか馬鹿とか150回以上言われた」そうだ。土地勘のないところで、家族構成もわからず、手当たり次第に宿泊施設に割り当てていった結果、高齢者がいるのにエレバーターもない旅館やホテルの上階だったとか、家族が多いのに部屋が足りないとか、不満が一気に町職員だった吉田氏に向けられたのだった。
 暫く吉田氏は夜も眠れなくなり、下痢も止まらなくなり、点滴を受けながら職務をこなし、役場の職員を辞めたいとまで思ったそうだ。退職を思いとどまったのは、「自分一人で抱え込んでいないか。みんなで一緒にできることからやっていこう」という先輩のひとことだったという。
 大熊町の人々にとっては、生活の場にあった核発電所の爆発事故によって、自分の意思が及ばぬどころか働く前に、闇雲に追い立てられるように避難させられたのだから、宿泊できるところに落ち着いたとき、怒りや悲しみや絶望などもろもろの感情が一気に爆発したことだろう。中には津波で家族を失ったり、家族が、働いていた原発に残らなければならなかったりした人々もいる。吉田町長のように町や公共施設の職員であったばかりに、自分も被災者でありながら加害者扱いされながら被災者の世話をする立場の人々もいる。ある東電の社員は殴られさえしたと聞いた。吉田氏の、150回以上、は比喩的な表現だろうが、実際はその何倍も汚い言葉で罵倒され、身体的影響が出るほど傷つけられていたと思う。
 大熊町にも筆者の友人知人たちは何人もいた。幸い渋滞に巻き込まれながらもそれぞれ親族や知人を頼り自主避難をしたり、[原発に一番近い教会]のメンバーと一緒に行動をしたり、家に一人取り残され自衛隊のトラックに救出されたりして、吉田町長を頼ることなく、それぞれの避難場所に落ち着くことができた。
 しかし、自分がその立場になったら、と思うとまことに心許ない。口汚く罵倒したりはしなくても、不満で心は爆発しそうになっただろう。怒るべき相手は他にいるのに、最も身近で弱い立場の人間に矛先を向ける、人間の弱さや無知が極限の時に剥き出しになる。講じて集団暴力へと発展することは歴史の中で繰り返されてきた。
 吉田町長が最も多く時間を割いて話したことは、罵倒されたことではなく、[大熊町の復興の現状と課題について]だった。2019年3月に大熊町役場新庁舎が完成し、5月7日に業務が始まるが、未だに会津若松、いわきに出張所、中通り連絡事務所がある。大熊町の人々がいかに広範囲に避難し、現在の地域に定着しているかがわかる。県内だけではなく全国に散らばってもいる。
 大熊町の総面積は78.71平方キロメートル、避難指示解除されたのは38.67平方キロメートル(総面積の49.1%)、特定復興再生拠点区域8.60平方キロメートル、この8.60平方キロメートルに役場があり、災害公営住宅、再生賃貸住宅、東電社員寮、などがあり、商業施設、宿泊温浴施設、住民福祉センターやグループホームなどが住宅を囲むようにある。学校教育施設は、4月完成の予定がウクライナ戦争の影響で資材が不足し、三か月延びているそうだ。2023年8月10日現在、完成しているかもしれない。
気になるところは、町内の人口だ。震災前、4235世帯、11,505人だったが、震災後避難者も含めて3983世帯、10,009人に減っており、現在人口は1,074人だ。この中には東電社員も、除染カンパニーの社員も、住民登録のない居住者も含まれる。うち帰還者は住民登録のない人も含めて231人だ。腸としては4,000人をめざしているそうだ。
 大熊町の現在の地図を見ると、特定復興再生拠点区域は全体の約十分の一だ。避難指示解除された地域も多くは帰還困難区域になっている。海岸寄りの核発電所周辺は中間貯蔵施設になっており11平方キロメートルもある。事故前は人口2,000人だったという。今は無人になり、人々は土地を売却したり、貸したりして県外や県内で暮らす。一人の元住民の男性が、今もまだ売却を拒み、津波で犠牲になった娘の遺骨を探しに自宅があった中間貯蔵施設あたりに通っている様子をテレビで見た。こういう人の姿を見ても、原発運転期間60年に延長とか、原発新設とか、今こそ原発再稼働とか、原発は必要とか、原発がなければ生きていけないとか、未だに言っている人々がいる。
 原発から300メートルのところで生まれ育った友人は言う。
「一番悲しいのは大地を汚されたこと」と。
 彼女の言葉を聞いて、トルストイの『罪と罰』が思い浮かんだ。

頭脳明晰だが貧しい元大学生ラスコーリニコフという青年が、独自の犯罪理論から、強欲で狡猾な金貸しの老女を殺し、奪った金で世の中のために良いことをしようとするが、偶然その場に居合わせた老女の妹も殺してしまう。警察の捜査が進む中、ラスコーリニコフは、貧しい家族を支えるために娼婦となった娘ソーニャを訪ね、事件の告白をする。ソーニャは驚きながらも「広場で大地にひざまずいてくちづけをしなさい」とラスコーリニコフに言う。

 ラスコーリニコフはゆがんだ自尊心をもっていた。ソーニャはそれを捨てろと言ったのだと、NHKの番組「100分で名著」では解説していた。ソーニャの憐みの心が感じられる。我々はソーニャのような憐れみの心を誰に向けるべきだろうか。

 核を開発した人々も例外なく頭脳明晰で、世のために良いことをしていると思ったに違いない。核兵器として使われて、多くのかけがえのない命を奪われながら、まだ核発電所に依存しようとするこの国の人々をどう理解すればいいのだろう。おそらく死ぬまで理解はできないが、人間は愚かだと感じることはできる。

 いまだに放射能の危険と隣り合わせの大熊町の課題は大きい。特定復興再生区域という囲いの中には、毎日の生活に必要なものが揃っている店はまだない。買い物は車で遠くの町まで行かなければならない。出店を打診された業者も、まだ採算がとれないからと断るという。
 町役場はじめ、立派な建物は国の復興予算で建てられたが、将来は町独自で維持していかなければならない。だから人口が増えないと困る、と町長は言っていた。「ほんとうに大変な時に町長を引き受けた」と、講演会に集まった人の中から吉田町長に対して同情の声が漏れた。
 大地が汚されてしまったことが悲しい、と言った友人は事故後佐賀に移住し、自宅の畑で無農薬の野菜作りをしている。四季折々に彼女から送られてくる野菜は、豊かな大地の栄養を受けて逞しく育ち、豊かな自然の味がする。台風の合間に育った野菜が、少し前からわが家の食卓にのぼっている。

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