反核の児童文学作家・那須正幹氏への悼辞

 反核・反戦の児童文学者で作家の那須正幹(なす・まさもと)氏が、去る7月22日、自宅のある山口県防府市の病院において、肺気腫で逝去されました。享年79歳。
 那須氏は1942年、広島市生まれ。3歳の時、爆心地から3キロ地点の広島市庚午北町(現・西区)に在った自宅で、母親の背中に負ぶさったまま被爆しました。4歳の時、早くも「インテリ坊や」の綽名を貰っています。49年、広島市己斐小学校に入学しましたが、クラスの3分の1は被爆者であり、親のない子もいました。これが作家としての原点を作ったと思われます。 長ずるに及び、被爆体験の延長上に原子砂漠からの脱却を願ったのか、島根農科大学林学科に入学します。卒業後は東京に出て商事会社に勤務し、江東区を拠点に自動車のセールスマンをしますが、どうもピッタリしません。配置転換への不満もあって辞職し、広島に戻って家業の書道塾を10年ほど手伝いながら、童話を書きだします。
 広島児童文学研究会「子どもの家」同人で、自身の戦後体験を入れた『あしたへげんまん』の竹田まゆみは実姉であり、正幹自身も同会に属していましたが、さらに彼女と同人誌「きょうだい」を発刊しました。
 第二回学研児童文学賞に入選した「首なし地ぞうの宝」(1972年)でデビューし、やがて居所を山口県防府市に移します。戦争児童文学『屋根裏の遠い旅』(75年)、掌編集『少年のブルース』(78年)、少年たちの心理を追求した『ぼくらは海へ』(80年)、「原爆の子の像」を巡るノンフィクション『折り鶴の子どもたち』(84年)などを次々と発表しました。
 エンターテインメント系の作品も多く、1978年からは、小学校6年生のハチベエ・ハカセ・モーちゃんを主人公にした「それいけズッコケ三人組」を26年間書き通しております。2004年に50巻で完結させるまでベストセラーになり、2009年4月にはJR西広島駅前に、三少年の石像が建立されております。
 その後も人気は衰えず、読者たちの要望を受けて主人公たちが大人になってからの作品も発表しており、この間、2007年には山口県に居住のまま、日本児童文学者協会(以下、児文協と略)の会長を5年ほど務めています。この会は1946年に「児童文学者協会」として設立され、57年に「日本」を追加したもの。会長の任期は2年ですが、前任の木暮正夫が在任中に亡くなったので、その後を引き継いだため奇数年となりました。なお協会が社団法人から一般社団法人になったので、那須は最後の会長です。肩書を「理事長」と書いたものもありますが、これは一般社団法人としての呼称です。多少ゴタゴタのあった時期ですが、彼の温厚な笑顔が大任を支えたのでしょう。
 彼の温顔に関しては、作家の高樹(たかぎ)のぶ子が『中国新聞』に載せた悼辞の中で、「怒った顔が想像できない」と記すとともに、その裏に「原爆を知る怖さがある」ことにも触れています。
 じっさい彼は多くの講演会でも被爆体験を語り、子どもたちに平和な社会を残すための活動を続けました。さらに具体的には、中国電力(本社・広島市)が進めている上関(かみのせき)原発建設計画を含む国の原発政策に反対する運動では、常に山口県内の中心的役割を果たしてきました。
 私が那須正幹という名を知ったのは『すずのひびき』という研究誌に、終戦直後から全国的に広まっていた広島図書㈱の児童雑誌の論考を書いていた2002~09年の頃であり、その後、献本したり送呈頂いたりするようになりました。下記の俚謡的な即興詩は訃報を目にした際、当時を思い出しながら故人に捧げたものです。

1)那須さん本を ありがとう
  一年 三年 六年の
  学年別に 書き分けた
  理解しやすい ものがたり  

2)本のふしぎは ゆめのよう  
  タイムマシンか スリップか
  いつしか ぼくも 少年に
  ゲンバクのときは 中二です
3)あなたが書いた ヒバクシャを
  ゲンパツはんたい うんどうを
  そして平和を うたいます
  あなたの本を 読みながら                           

合掌

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