連載 故郷福島の復興に想う第2回 大熊町の核発電所 谷本 多美子(アイキャッチ画像 核発電所近辺 佐藤将司氏撮影)

佐藤将司氏撮影

 福島第一核発電所に隣接する双葉町にある母校福島県立双葉高校の校訓は、質実剛健、終始一貫、だった。元は男子校としてスタートしたので、ふさわしい四字熟語だったのだろう。敗戦後新しい学制になってから、少しずつ女子の入学も認められるようになり、筆者も何期目かに入学することになったのだった。
 双葉高校は1923年4月、双葉町の一年間の予算が2万円の時代20万円をつぎ込んで設立されたと、ずいぶん後になって同窓生の一人からから聞いた。そのころ福島県浜通りで名の通った中学(旧制)は、磐城か相馬にしかなかった。その中間の双葉町にも文武両道の学校を、と双葉町が名乗りを上げたらしい。ちなみに筆者は、文武両道も終始一貫もどちらも極めることはできず、辛うじて卒業できた、に留まるが、人格形成の大切な時に3年間を過ごした高校は懐かしい。
 双葉高校の校訓からか、遠足は、遠い足、と書くので徒歩で、と決まっていた。高校2年の春の遠足の目的地は夫沢(現福島第一核発電所の所在地)の塩田跡だった。双葉高校からアップダウンのある山道を南方に3㎞くらい歩くと、夫沢に塩田跡があった。このころまだ大熊町という地名よりも細かく分かれた集落の地名の方が多く使われていた。
 大熊町という地名になったのは、1889年4月1日、町村制施工にともない、標葉郡大野村と熊町村が発足、1896年4月1日、しねぐんと楢葉郡楢葉郡ならはぐんが合併し双葉郡になり、さらに大野村と熊町村が合併して、双葉郡大熊町となった。ひとことで言うと短いが、長い歴史の変遷があったことを知った。
 母校双葉高校の校歌の一番の歌詞の中にも織り込まれている。

 楢葉標葉のいにしえの
 名も遠きかな大八州おおやしま
 その東北ひがしきたここにして
 天の恵みは満ちたれり
         土井晩翠作詞
         信時 潔作曲 

 高校時代は歌詞の意味を深く考えずに歌っていた校歌だった。当時は歌詞よりも、土井晩翠作詞に興味があり、いくぶん誇らしくもあった。
 改めて見直すと、感慨深い。土井晩翠は一番の歌詞の中で、双葉郡の地理的状況を詳しく知り得たように表現していると思う。いわき市以北浪江まで、双葉郡は広範囲に及ぶことがわかる。主立った町といえば、浪江、富岡、辛うじて双葉、くらいで、後は駅前に何軒かの店があるだけの、農地と山林に囲まれた寒村が多かった。寒村といえども、豊かな自然に恵まれていた。額に汗して働けば自然からの見返りはあっただろう。生まれ育った土地で真面目に生きていた人々の中に、核発電所は突如入り込んだのか。

 高校時代の遠足の思い出は、特に心に深く残ることもなかったが、いつまでも記憶に残っているのは、山道を登って辿り着いた先にあった広大な塩田跡だ。それ以前は第二次大戦中の飛行場跡だったとも漠然と知った。さらに福島第一核発電所となるわけだが、もっと詳しく知りたくて、インターネットで検索していると、フォトジャーナリスト安田奈津紀さんの取材ノートが見つかった。
〈かつての特攻訓練場は、福島第一原発の敷地となった [捨石塚]が伝えるものとは〉 という表題で書かれている記事の内容に衝撃を受けた。安田さんの取材によると、大熊町から内陸の郡山方面に向かう国道288号線沿いに、野上という今も帰還困難区域にある山間部の集落に、「捨石塚」と呼ばれる小さな石碑がある。石碑の前には小石が詰まれ、小さな山のように盛り上がっている。この石碑の歴史については長い間明らかにされてこなかったが、かつてここには[小塚製炭試験場]があったと、『大熊史』に記されているそうだ。その試験場は、当時の農林省山林局の重要施設として1940年に設置された。そこでは質のよい木炭を効率よく生産する方法や、炭焼きの技術を学ぶために、全国から研修生が集まり、実習に励んでいた。第二次世界大戦が始まり、日本は燃料不足に陥り、木炭自動車を導入するまでになっていたので、製炭試験場の担う役割は大きかったと思われる。石は研修を終えて地元に戻る実習生たちが、彼の地の守護神である山神に、よい炭を作ってお国の捨石になる、と誓い、近くの川から拾って積んだのが増えていって塚になったらしい。研修生と一緒に、十代半ばくらいの、20~30人の兵隊たちが働いていたが、彼らはどこから来たのかと聞かれても口を閉ざしていた。
 戦後になってそのときの若い兵士たちは、特攻訓練生で、磐城飛行場(塩田の前身)から来ていたことが明らかになる。特攻訓練生はみな幼く見え、おそらく十代半ばから後半だったのでは、と安田さんの取材に応じて、捨石塚の由来を知るT氏は当時を振り返っていたという。捨石塚にはごつごつした石に混じって丸みを帯びた石がある。丸い石は兵士たちが海から拾い、先に配属先へと向かった仲間たちへの鎮魂と供養のために、気持を込めてひっそりと積んでいったものとされている。そのような意味での塚を飛行場近くに創るわけにはいかなかったのだろう。なぜ特攻訓練生が製炭場で働いていたのか、おそらく働かされていたのだろうが、知りたいと思ったが、安田さんの取材ノートにはなく、知人たちに聞いてもわからなかった。[捨石塚]についても知っている人は大熊の人々の中にもいない、というくらい少ないのではないかと思う。
 磐城飛行場は1940年に建設が決まる。この飛行場で、特攻隊の養成が行われるようになり、訓練が終わると兵士たちは特攻隊として薩摩半島の知覧や南方の島々の特攻基地へと配属されて行った。前途ある若者たちの命は消耗品のように扱われ、消えていった。夫沢はなんと忌まわしい土地であったことか、と一瞬思ったが、忌まわしいし土地にしたのは人間なのだ。

 磐城飛行場が建設される前の話しを、富岡と大熊の境目に生まれ育った知人から聞いた。大熊町夫沢は樹木の生い茂る山だった。知人の知り合いは兄弟も多く、所有する田畑だけでは生活が苦しく、かといって福島県の浜通り地方にはこれといった産業もなく、若者が働く場所など無いに等しかった。そこで何軒かで夫沢の山の開墾を始めたのだった。
 開墾した土地は無償で与えられた。土地を耕して漸く作物が実るようになった頃、彼らは国策によって立ち退きを命ぜられる。磐城飛行場跡記念碑の碑文によると、「この地起伏少なき松山に、農家散在す、昭和15年4月国家の至上令により突如、陸軍で飛行場建設決定、住民11戸移転直ちに着工す――後略」
 磐城飛行場建設のために。強制立ち退きを命じられた彼らが移り住んだところは、福島第一核発電所から300メートルくらいのところだった。2011年3月11日の東京電力福島第一核発電所の事故で彼らは血の滲むような苦労をして手に入れた夫沢の土地を奪われ、二度と帰ることはできなかった。
 第二次大戦後磐城飛行場は民間に払い下げられた。この広大な土地を二束三文で買収したのは、国土計画興業(西武鉄道グループの不動産会社、操業者堤康次郞 1920年3月25日設立 解散2006年2月1日 主要人物堤義朗)で、製塩のための塩田として使用する目的だった。が、実際には調査の時点で事業は終了していたと聞く。その後核発電所建設のための用地として売却した広大な土地から、国土計画興業が莫大な利益を得た、と推測するのは筆者の、邪推、だろうか。
 誤った国策によって引き起こされた戦争によって強制移住させられた人々は、再び国策による核発電所の建設、その結果の爆発事故により、翻弄され、今はどうしているのだろうか。大熊町出身の双葉高校の後輩は言う。

 放射能災害は、人の歴史を[ゼロ]にします
 故郷を[ゼロ]にします
 今まで築いてきた努力を[ゼロ]にします

 豊かな自然に恵まれていた故郷を、一瞬にして奪われ、立ち入ることもできない現実と向き合っての彼の言葉は重く響く。
 90%が立ち入り禁止の大熊町にも役場の新庁舎が完成し、2022年5月7日業務が開始した。町の復興を願い、戻った人もいる。しかしここに来て政府与党は、復興財源を防衛費に、と言い始めた。福島の復興は日本の国の復興、と公言したリーダーがいた。子供たちに、終始一貫、を教える立場の大人が、公約を覆し、戦争のための武器購入に方向を転換させて、どんな言い訳をするのだろう。

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