このシリーズの発端は、紙の会報時代に書いたアスチカ(福島から広島への避難者の会)の近状報告でした。その後は岡山県や山口県の避難者の会に触れ、各地の原発へと筆をすすめてきたのですが、逆に福島へと転居された人もおられるはずです。今回はそうした一人に焦点を当てたいと思いますが、それはふとした縁から始まったのです。
広島の原爆関連イベントの中に「ジュノー記念祭」というのがあります。ジュノー博士は赤十字国際委員会駐日主席代表で、広島の惨劇を耳にすると連合国軍最高司令官のマッカーサー将軍を口説いて1.5トンの医薬品を出させ、敗戦間もない9月8日に広島へ届け、自らも診療した広島の恩人です。その徳を偲んで信奉者たちは「ジュノー研究会」を作り、毎年、博士の命日である6月16日に近い日曜日に記念祭を開催してきました。
私も創立会員ですが、現在の会長は広島少年合唱隊の指導をしてこられた林久雄先生で、私が出版した混成詩集『麗しの福島よ』を謹呈しますと、「少年合唱隊の卒業生で福島に移住して福祉関係の活動をしている、半田という40代の男にもこの詩集を送って下さい」との依頼がありました。さっそく送呈したところ、折り返し写真のような3冊の本を献本して下さり、「……渡辺先生(天瀬の本名)と御縁を頂きましたこと、感激しかありません」との一文が付いていました。去年の1月末から2月にかけてのことです。
左側の『ヒマワリが咲くたびに“ふくしま”が輝いた!』(2017年、ごま書房、以下『ひまわりが輝いた』と略)は、半田氏の活動が主な内容ですが、あとでまた詳述します。右側前下のはんだ・しんじ著『人物のまち福島』は「チ-ムふくしま」のことなどを書いた私家版ですが、2020年に第14版を出しています。その後ろ上にタイトルだけが見える『福島ひまわり里親プロジェクト物語』は、文章を書いた田原実氏(1965年生まれ)も画の西原大太郎氏(1971年生まれ)も、ともに広島市の出身ですし、発行所の(株)インフィニティも広島市にある出版社。なにかと広島に縁のある3冊ですが、直接私と縁の生じた半田氏の思考と行動の跡を追ってみましょう。
半田真仁(はんだ・しんじ)氏は、広島市生まれ・広島市育ち。大学卒業後はエネルギーの商社に入社し、最初の赴任地は金沢。ここで仕事中に事故に遭い、車椅子生活も覚悟するほどの大怪我を負い長い入院生活に入って悩んだ末、車椅子でも可能な相談業務である精神保健福祉士の資格を取りました。
ちょうど福島県庁の雇用対策グループが「若者自立相談員」を募集していたので、ここの相談員となり、年間1000人以上の若年層への面談を経験します。縁のなかった福島での仕事ですが、県庁の職員が温かく接して下さったので、契約期間が過ぎても福島へ残ることになります。その時広島の両親は福島へ住み着くことに反対しますが、半田氏の福島への愛着は強固なものになっていました。特別職業相談員を経て、<いい会社を創る>ことを目的とした経営支援事業を主軸とする「採用と教育研究所」を設立して所長となり、「NPO法人チームふくしま」理事長にもなります。前述の『ひまわりが輝いた』はチームふくしま著・半田真仁文となっていますが、半田真仁著としてもおかしくない内容です。
東日本大震災と東電福島第一原発事故の起こった時、半田氏は福島駅西口の近くで電話中でした。そして当分は「福島の話を聞かせてほしい」という講演依頼が殺到しますが、やがて「チームふくしま」が「福島ひまわり里親プロジェクト」を立ち上げることになり、彼はまた全身全霊を打ち込んで動きました。
これは先ず福島から種苗メーカーが仕入れた外国産の向日葵の種を全国の皆さんに送り里親として育てて頂き、また福島へ戻してもらう活動です。具体的には① 3.11で仕事が激減した福島の障害者の作業所で種をパック詰めにして販売。➁全国の里親さんが種を購入し学校・企業など各地域で栽培、取れた種を福島に送付。③届いた種は福島の学校などに無料配布し、復興のシンボルとして開花。④福島で採れた種は2ヵ所の福祉作業所の仕事にして、搾油後、バスのエネルギーとして使用するのです。
最後は非化石燃料となるのですから、脱原発社会をめざす者としても看過すべからざるプロジェクトですし、多くの受賞・表彰を受けておられますが3冊の本を読んで感じるのは、半田氏がいつも社会的弱者の立場に立って考え行動しておられることです。しかも悲壮感のようなものがなく、いつも明るく前向きに生きてこられたのでした。
彼の文章やお話の中で、しばしば「ご縁」という言葉に出会いますが、いささか宗教的なこの言い方にも抹香臭さがなく、明るい未来が感じられるのです。
それでは次回は他の領域での、福島支援の隠れた面に触れてみましょう。
同情から尊敬の県へ向日葵よ
縁ありて件の如き輪廻かな
愛なくて原発の罪や慈悲心鳥
(2023.7.11)